もう終わりにしませんか

 こんばんは。初めましての人は初めまして。関東某所でひっそりクイズをしてます、社会人1年目の高生(こうしょう)といいます。ちょっと前までOUQSにいました。問題集『Code Talker』シリーズとか、クイズ大会「WidowMaker」の中の人だと言えばわかる人にはわかるかもしれません。


これまで続けてきた「STU」系列への批判


 いつも前置きが長いと言われます。すみません。今回は手早く本題に入ります。

 私はかねてより、STU系列のクイズ大会(STU、UNION、VWX、PQR、VIVID、BNS、FRK、etc…)に対して、SNS上で批判的な言葉を投げかけてきました。時にかなり強い言葉で長々と非難を綴ったこともあり、共感できない方からは眉を顰められていたと思います。

 先日公開した『クイズロイドは世界礼賛の夢を見るか?』という激長コラムでも、増大し続ける「肯定」への需要が生んだ存在として、STU系列の大会(以下STU)に批判的に言及しました。クイズは正解すればなんだって楽しいし、努力が報われれば誰だって嬉しい。気心知れた仲間と戦う団体戦なんて楽しくさせない方が難しい。この現実に迎合し、機会提供という理念を錦の御旗に据えたSTUは、「正解の機会」と「努力の報われやすさ」だけに主眼を置き、知的好奇心を求める態度や出題の精緻さをないがしろにしている。この姿は、肯定に先立つべきクイズの本質的魅力を見失ったまま、ただ需要だけを燃料に駆動する「肯定装置」そのものだ。と、まあ要するにそんな話でした。「この一節のせいで台無し」という手厳しい意見もあったようですが、僕は必要な一節だったと考えています。あの文章を他人事として読まれることが最悪のケースだったので。


 さて、具体的にSTUのどのような要素がSTUを「装置的」たらしめているか。STU系列の問題を知る人は否応にも心当たりがあるでしょう。質を意識して問題を制作したならおおよそ不可能と思われる、異常な大会開催頻度(数百問規模を年4回~)。熟慮した結果の出題とは思えない手垢問題の再放送と、ありあまる過去問からの無批判な流用。「確かにそうかもしれないけど…」としか言えないような、吟味の足りない情報を足し算した前フリ。決して流麗とは言えない、時に日本語として破綻した問題文。「唯一」、固有名詞、規格といった安易なフレームのもとで、重要性を鑑みずにとりあえず問いにしてみる出題規範。先日の「VIVID」では、SNSで晒されること前提だと言われても仕方のない、ありきたりなネットミームにおもねった問題も見られました。(最近ネットミームクイズの問題集がいくつか出た流れに便乗してみたんでしょうか?)


 もちろんすべての問題がこうだとは言いませんが、総体として見るに、「質より量を是とする作問姿勢」「不自然な出題スキーム」「一辺倒な対策可能性」の三拍子が揃った、たいへんお手本にならない問題群であることは、ある程度経験を重ねたプレイヤーの間では共通認識と言ってよいでしょう。


 そして、最も大きな問題は、これだけの大会歴を抱えてなお、こういった瑕疵を本質的に改善しようとする姿勢が伺えないことです。腰を据えて改善を目指せるような開催スパンではないので当然です。というか、そもそも改善が必要だと感じているのは外野だけなのかもしれません。


 このような退廃的ともいえる開催態度が、1問1問を大切にせんとする僕の理想と根底から相容れないことは言うまでもありません。それだけでなく、「出題に値する題材か」を吟味することに多大なリソースを割いてきた現代クイズの態度とも、自然で洗練された日本語での真剣勝負を望む昨今の潮流とも相反するものでしょう。しかしそんなSTUは、1年で開催されるほとんどの大会より参加者が多い。志あるプレイヤーによる渾身の大会が千紫万紅の彩りを見せる令和のクイズ界にあって、STU系列は悪しき特異点と言える存在です。


黙殺しない理由と、この文を書いた動機


 この現状に対して、Not for meと無視を決め込む、あるいは「訴求先が違うんだから仕方ない」と現状を受け入れることも可能なのでしょう。むしろ今の僕の立場であれば、そうした方が無難だし、簡単です。しかし一貫して僕がそうしてこなかったのは、STUそのものの開催姿勢と、STUを取り巻く一部のプレイヤーの態度が、今後も続く競技クイズ文化に対して悪しき影響を与えると確信しているからです。


 まず、STUが有名無実な集客力を保ち続けることでどのような問題が起きるか、僕の考えを説明します。STU系列の大会は、単純な努力の実りやすさにおいてはほとんどの大会の追随を許しません。そして、まだ好き嫌いを言えないほど正解の栄養を必要としている初心者のプレイヤーにとって、「適格者」だけが立つことを許される壇上で、自分自身にスポットライトが当たるSTUの舞台は、問題の質と関係なく魅力的に映ることでしょう。観戦しているだけでも、憧れと期待、そして自己投影で胸がいっぱいになっているかもしれません。


 しかし、先のコラムの一節でも述べた通り、工業的とさえいえるSTUの肯定を目指す道のりの中で、自由な知的好奇心は簡単に消し飛んでしまう。あなたに1○が入った嬉しい1問のあとには、往々にして「正しく答えられた」という事実しか残らないのです。しかし、この欠点を補って余るほどわかりやすいクイズ的高揚は、初心のプレイヤーをいとも簡単に籠絡し、単語帳的な箱庭の努力に閉じ込めてしまう。クイズの“暗記ゲーム”的な弊害から脱しようとする大会/問題集が増えつつある今、未来ある初心者が成り行きでSTUへの努力に身を投じてしまうことを「もったいない」と感じてしまうのは僕だけではないでしょう。単語帳的な努力から広がっていくクイズも決して否定はしませんが、それは低質に甘んじていいことの言い訳にはならないのです。また同時に、STU系列の市場スケールは質に見合わないほどに肥大化し、未来を志向するサプライヤーは理不尽な差を目の前にしてじわじわと心を削られます。数年前の僕がそうだったように、です。



 しかし、STU系列は決して「初心者人気だけに持ち上げられている」わけでもありません。現状に立ち返ってみると、もはや「装置」に頼らずとも十分な賞賛を得られているようなプレイヤーであっても無批判にSTUに参加を続けているし、あるいは系列のスタッフを引き受けています。彼らは、STUが真に権威ある大会ではないことにも、初心者が率先して打ち込むべきような大会ではないことにもおおかた気付いているように思います。この現状を見たとき、STUを有名無実な権威たらしめるにあたって「装置」性はあくまで最も直接的な原因であり、周縁を掘り下げると別の要因があるように見えます。


 そして今回、僕がこのnoteで言語化したいのも、この「STUを続けさせている側」の問題です。この文は、誰もがうすうす気付きながらもあえて目を瞑っているこの視座を改めて提示し、これ以上この問題を矮小化させないために書いたものです。




低質さを消費する場としてのSTU


 さて、一言に「続けさせている」といっても、STUのスタッフが悪いとか、問題集を買う人間が悪いとか、そもそも参加するのが悪いとか、そんな安直な話ではありません。問題はもっと特異的なところにあります。


 SNSを利用している方ならご存じかもしれませんが、それなりに経験を積んだプレイヤーの一部にとってSTUは単なるクイズ大会ではなく、悪目立ちする(いわゆる“アレ”な)問題を冷笑混じりに楽しむ場です。彼らはSTUを純粋にクイズを楽しむ場としてではなく、「そういう問題」が出ることを前提に、そういう出題傾向を「STUらしさ」とみなし、「これだよこれ」とコンテンツ消費して楽しむ場としても利用している。ここまで底意地悪くなくとも、STUが本当の意味で権威ある大会ではないことを逆手に取り、「クイズ大会のそれっぽい盛り上がりだけをチープに消費できる場所」として利用している上級者は決して少なくないでしょう。


 SNSを軽く覗くだけでもその片鱗は伺えます。奇特な(≠面白い)問題を大会中にSNSに投稿する文化。その投稿に往々にして付される冷笑的なコメント。「死の帳面」などかつて飛び出たネタを擦る一部の参加者の態度。STUそのものを「花火大会」と呼んで、「何でもいいからとりあえず楽しんでしまうこと」を正当化する風潮。正直、目の前にあるものが「ワルいもの」であることを無批判に受容したうえで、属性的・属人的な奇特さを背景にそれを冷笑に昇華するしぐさは、ネットミームだけで会話するおイタな男子中学生と同質なようにも思います。しかし、この「STUミーム」に便乗する主体は、歴を重ねた大学生や社会人に多いように見受けられています。


 クイズ大会に対してこのような屈折した楽しみ方を覚えた人が多くいる、それだけならまだ僕は無視していたのかもしれません。コンテンツとしては心底面白くないとは思いますが、大会をどう楽しむかは個人の自由です。

 しかしここでの大きな問題は、この方法でSTUを“遊べる”層と、STUの工業的な肯定に純粋に囚われてしまう層の間に、経験的な隔絶が存在しているということです。すなわち、STUを冷笑できる人間は、STUでの活躍にしがみつかなくてもある程度満たされている。一方で、少なくとも現在のクイズ界で、STUを真摯な努力の対象に据え、STUに対して(“成仏”的な意味合いでなく)本気で努力せんとする人は、クイズを始めてそう時間が経っていないことが多いのではないでしょうか。


 

冷笑は受容であり、再生産である


 ここで考えるべきは、「STUを努力の対象に据えてしまう初心者層」が、「STUを冷笑的にコンテンツ消費する経験者層」を見たとき、どう受け止めるか、という点です。

 多くの初心者は、「この人たちは奇特な問題を冷笑して面白がったり、その場だけのバイブスを上げて楽しんだりしているんだ」とは、きっとすぐには理解しないでしょう。むしろ、「ちょっと全容はよくわからないけど、とにかくあんなに有名な人が勝ち進んでいるんだ、abcの壇上にいた人がこんなにスタッフをやっている、終わった後も花火大会良かったとか良い大会だったとか凄い人が言ってるし、これは結果を残すべき大会なんだ」とポジティブに受け止めることの方が多いのではないでしょうか。大学生や社会人の生の声が届きにくい中高のコミュニティなら尚更です。

 しかしそうやって何十冊もある過去問の暗記に身を投じた人も、数年もすればそこが狭い箱庭であることに気が付きます。本来ならそこでフェイドアウトするようなところ、ことSTUにおいては一部が冷笑主義者に脱皮し、異なる価値認識のもとで参加するようになる。そのころにはある程度強くもなっているでしょう。その“カッコいい”姿を見た初心者層が、またSTUを努力の対象として認識する。その一部は、時を経てもまた冷笑的消費のために生き残る。ここに、STU独特の「認知の差による価値観の拡大再生産」の問題が浮かび上がります。すなわち、冷笑という不健全な価値が認知の非対称を生み、その非対称に駆動される再生産が、質に全く見合わない権威を維持している。


 僕がSTUを本気で批判すると、「バカにして参加してるんだからいいじゃないか」と言う人が何人もいますが、とんでもないことです。この期に及んで、冷笑は積極的受容でしかない。低質さに気付いてなおそれを生ぬるい冷笑に昇華して参加を続けるあなたの存在が、この負の連鎖を生んでいることに、そろそろ自覚的になるべきです。さらに悪いことに、そうして誕生してしまう若い「真摯な努力」の確かな存在が、バグった問題を笑いものにして楽しむ行為の罪悪感をも打ち消してしまう。


冷笑的STU支持者の誕生


 では、そもそも何故、低質さに気付いてもなおフェイドアウトせず、「時に冷笑しつつも参加し続ける/スタッフを引き受ける」という選択肢を取る人がこれほどまでに多いのか。時折出るアレな問題が、それ単体で純粋に人を集められるコンテンツになっているかと問われると、僕はそんなことはないと思っています。そうだとしたら、なぜ冷笑に及ぶSTU参加者/スタッフがこれほどまでに誕生するのでしょう。


 一つは、「わかってる人の楽しみ方」への憧れと、ミームを「わかってる人」同士で共有する快感があるように見えます。「花火を打ち上げた」とさえ言っておけば、「自分はSTUの“楽しみ方”を理解していて、それでみんなと一緒に笑える人間なんだ」という確証を得ることができる。とりあえずSTUを「そういうもの」としてコンテンツ消費しておけば、それを“わかってる”人から好意的なリアクションを貰えるし、自分がコミュニティの一員であることを再確認できる。そういったムラ社会的な安心感を得る手法として、STUの低質性が利用されている側面は否定できないでしょう。


 あるいは、STUを冷笑できる人々は、かつてSTUに対して本気で努力した経験がある、という場合も少なくないように思います。かつて、STUが真摯な努力の対象として広く認知されていた時代が確かにありました。おおよそ今からは想像できませんが、10年ほど前、僕がクイズを始めたころの若手プレイヤーは、abcという高すぎる壁に挑む前の関門としてSTUを見ていました。STUの壇上で躍動する先輩の姿に胸を打たれたプレイヤーもいれば、abcよりSTUに本気で打ち込んだプレイヤーだっているでしょう。今の時代も、abcの紙抜けが昔よりはるかに難しくなったからこそ、STUでの活躍が最初の「戦績」だ、という人も少なくないはずです。


 しかし時を経て、STUは「質より量の大会」としての立場を確かにしていきました。あるいは、STUがそういう評価をされていること、自分がそういう評価を下さざるを得ないことに気が付いたのかもしれません。一方で、過去の時代を知らないプレイヤーは、今のSTUを見て、今の価値観だけでSTUを捉えている。この現状を見たとき、今フェイドアウトする選択を取れば、かつて努力の対象として厳然と君臨したSTUを否定することになる。このジレンマの中で、STUを努力の対象として素直に見つめていた人は、その過去を守りつつも今の自分の価値観に嘘をつかないため、「良くないところはちゃんと冷笑している」ことを便利なエクスキューズにして積極的参画を続けているのではないか、と僕は考えています。この推察は決して揶揄でも冷笑でもありません。なんなら、自分がその立場ならそうしていたかもしれないとも思います。しかし事実として、このダブルスタンダードな態度が、結果的に低質さの受容に直結していることも確かだと感じています。


最後に言いたいこと


 最後に大事なことを。この文章は、STUにあえて参画する人をただ糾弾したいだけのものではありません。そもそもこの話は善悪二元論ではなく、突き詰めると僕の理想論であり、ただの好き嫌いです。しかし、「嫌いで腹が立ったから叩いた」という単純な理屈でもありません。ここまでで批判した内容に当てはまるプレイヤーの中には、僕の同期だっていれば、僕と飲んだことがある人もいるだろうし、僕の大会を楽しんでくれた方もいると思います。クイズは一人ではできない趣味ですから、僕はこういった袖振り合ったプレイヤーとともに、可能性に満ちたこの文化を進歩させていきたいと思っています。しかし、その同好の士たちの多くは、自分に続く後進と文化の未来から目を背け、閉じ切った冷笑的コミュニケーションのもとで無批判に低質さを受け入れ続けている。そんな姿を見るのは、腹立たしい以上に悲しいのです。僕より知識が多く、僕より多くのクイズ機会に触れてきたであろうあなたたちが、なぜ今になっても目を閉じているのですか。

 僕はこの文に「もう終わりにしませんか」という題をつけました。これは、決してSTUそのものに向けた言葉ではないことを申し上げておきます。畢竟、大会を粗製乱造するのは自由だし、それに適切な市場評価が下っているのなら、あえて殊更に批判するのはパターナリズムです。この言葉は、STUが未来に与えうる悪影響に気付きながらも冷笑的消費に留まっている人に、今からでもこの負の連鎖を終わりにしませんか、と訴えるものです。あなたが“花火”の盛り上がり目当ての参加をやめるだけで、あなたがSNSでSTUをコンテンツ消費するのをやめるだけで、悪循環は改善します。欲を言うなら、僕と違って努力のやり方を知る者として、STUに代わる質の高い肯定機会を生み出してほしいとも思います。「花火大会」などと呼ばれた日には真剣に怒ってしまえるような、そんな志ある大会を作っていってもらえることを強く願っています。

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