クイズロイドは世界礼賛の夢を見るか?

はじめに


 ご無沙汰しております。クイズ大会・WidowMakerの大会長を務めております、大阪大学M2の高生と申します。


 先日開催致しました『WidowMaker 2023』は135人もの参加者にお越しいただくことができ、内容としても、なんとか自分の中で合格点を出してよい水準まで到達させることができました。発売した問題集もわりと順調に売れていて、X上でも問題へのお褒めの言葉を頂戴する機会が前より増えました。一番えらいのは僕(と馬車馬のように働いてくれたコアスタッフ)なのですが、僕が用意した渾身の問題を、時には壇上から軽妙に打ち返し、時には観客席から感嘆の声を上げ、時には会場一体となって笑いで包んでくれた参加者の皆様、そして1問3円・1500円という、ちょっと良いランチが食べられる値段を僕に投資して頂いた皆様にはここで感謝を言葉にしたいと思います。本当にありがとうございました。また、優勝された原さんはおめでとうございます。誰も文句がつけられない圧巻の優勝だったと思います。


優勝の瞬間



↑記録集発売中です。実は今見返すと改善点が見つかる問題があったりするんですが、差し引いてもそれなりに良い問題集だと思うのでよろしくお願いします。(守銭奴)




WidowMakerのもう一つのコンセプト

 

 さて、僕は『WidowMaker 2023』当日の大会長挨拶で、次のようなことをお話ししました。

 「この大会は一応、最も正解を積み重ねた人が優勝するという形をとっています。しかし、何か面白い情報に接した時の感動は、当たり前ですが、それを前から知っていた人より、知らなかった人の方が大きいはずです。ですから、今日この大会を通して正解を思うように積めなかった人、自分の知識体系が役に立たなかった人がいたとしても、全く気にすることはありません。なぜなら、最も正解から遠かったあなたこそ、最もこの大会を楽しんでいることになるからです。」

2023/6/18 池田市民文化会館にて


 実はこの口上は、前もって用意していた台本があったわけでも、以前から話すことを決めていた内容だったわけでもありません。しかし、当日の朝、用意した500問弱すべてに目を通し、大会に足を運んでいただいた皆さんの姿を舞台上から目にしたとき、自然とこの言葉が溢れ出してきました。


舞台上で何やら喋り始める高生

 

 今になって考えると、この口上は、僕がWMの問題を作るときに常に意識しながらも、あえてnoteでは言及をしなかったもう一つのコンセプトの表出といえるものでした。
 ご存知の通り、公開していたWMのコンセプトは「悪意と原点」です。僕がこの大会で創造したい価値、抱えてきた理想を的確に捉えた良い言葉だと思っています。しかし、あらゆるクイズ大会は「何をしたいか」と「何を意図的に“しない”か」の両輪で成り立つべきであり、その見地に立つと、僕は「WMで何をしたいか」をあそこまで丁寧に提示しておきながら、「WMで何を“しない”か」を意図的に隠していたことになります。もちろん、「原点」という言葉に競技のアンチテーゼとしての側面を感じ取る人は多いと思いますし、それを否定するべくもありませんが、WMの問題は、「競技性に立脚しない」ことよりも大きな、そして遥かに重要な「NO」をクイズ界に突きつけたつもりでした。


 前回のWMを支えたもう一つのコンセプト、それは「脱肯定・脱断罪」です。




「肯定」の魔力


 今から数年前からでしょうか。「人生肯定」という言葉が、「人生の肯定」という原義を飛び越えたヴィヴィッドなニュアンスとともに耳に入るようになりました。どうやら、「クイズ外の営みで得た知見が、的を射た前フリのクイズで出題され、それを自分が華麗に正解すること」という一連の流れを指して使われているようです。最近は、もはや正解すら必須要件ではなく、「好きな題材がクイズとして出る」こと、その一点をもって「肯定」と呼ぶ用例すら見かけます。



 このようなガラパゴス化した用例を抜きにしても、こんにち目覚ましくなったクイズ文化の裾野の広がりは、原義の「肯定」に支えられていることに異を唱える人は少ないでしょう。「皆にはできないような正解を出せば、『それを知っていたあなた』と『それを知ることができた人生』の両方に掛け値なしの賞賛が贈られること」、「誰もが知る簡単な答えだったとしても、早くボタンを光らせて声帯から正しい符号を発したあなたにスポットライトが当たり、あなたにだけ得点が入ること」、「これらの肯定が得られる頻度は努力によって有意に上げることができ、その努力の道程そのものに対しても副次的な肯定を得られること」、「努力の結実たる知識量を、ペーパー通過や単独正解といった明示的な形で世に見せつけられること」…。思いつくだけでも、こんなに魅力的な「肯定」があたりに、あるいは道の先に転がっています。そして、こういった数多の肯定が複雑に絡み合い、時に協調し、また時にコンフリクトし、知の発露に欲深い我々を緩やかに抱擁しているのが競技クイズ文化だ…と表現するのは、いささか露悪的かもしれませんが核心に近いと考えています。


 今思えば、僕がクイズの世界に足を踏み入れたのも、この「肯定」が持つ強大な魔力に誘引されたせいでした。幼い頃、プレッシャーSTUDY時代の『Qさま!!』を見ながら、ロザン宇治原よりも先にマイナー武将を正解して一人喜んでいたのも、画一的な公立学校の教育では決して満たせない「知を持つ自分への肯定」を得るためだったのだと思います。そのロザン宇治原と同じ高校に入ってから、零細も零細だったクイズ研究会にわざわざ足を運んだことも、「新しい知を得るため」というより、「自分だけが知っている何かをカッコよく見せつけて褒められたい」という欲望に支配された結果です。今のスタイルからは考えられないかもしれませんが、その欲望に支配された僕が、その後1年ほど「メドヴェーデフ・シュポンホイアー・カルニク震度階級」とか「マルキ・ド・サドの演出のもとに云々」みたいなアレをずっと暗記していた話は、恥ずかしいのでまた別の機会としましょう。


高生が高校時代に開いた例会。変な問題がいっぱい出た(同期古巻・談)




「競技」と「クイズ」の矛盾


 さて、改めてこう書くと何やら批判的な論調に見えてしまいますが、肯定の存在と、その獲得を目指す人間は、元来何の誹りを受けるいわれもありません。だって、人が他者と関わる趣味というのは須らくそういうものであり、肯定が目的にならないものはこの世に一つたりとも存在しないだろうからです。対話がある趣味の世界において、我々は胸を張って、そして恥ずかしげもなく肯定を渇望してよいのです。それが趣味なのですから。


 しかし、この「肯定」の蠱惑的な魅力によって多くの迷える子羊を取り込んできた競技クイズは、生来的に「肯定」と「知的探究」の間で相反してしまっていた特性によって、知を愛する文化として悲劇と言えるほどの矛盾を抱えていくことになります。言い換えると、「競技クイズ」は1つの文化としてその地位を確かにしながら、「競技」と「クイズ」の間に解消しきれない不和を抱えてしまっていたのです。


 それは、「知的な発見があって面白い」ことと、「あなた個人への肯定が発生する」ことが必ずしもリンクしない、という揺るぎない事実です。



 この世界は面白い発見で溢れています。僕のような傾向のクイズを作っていると、本当に、眩しいほどの面白さが世界に溢れていることを日々痛感します。そしてクイズという営為は、その面白いことを「問い」というフォーマットを通して第三者と共有し、感動を分かち合いたいというささやかな欲望に駆動されて生まれた趣味だ…と、少なくとも僕は考えています。こんにちのような高度な競技化を経ても、クイズにカルタ同様の「出題の枠」が出現しないことからも推察できる通り、どれだけ原点から変容を遂げても、建前としてこの性質は受け継がれているのでしょう。


 しかし事実として、我々がより強く快楽を感じるのは知を得た瞬間ではなくクイズに正解した瞬間であり、クイズを通して世界の知を血肉としていく最も甘い過程は、苦しみが発生することも厭わない「努力の対象」であるかのような扱いを受けることもあります。その結果なのでしょうか。競技クイズの主戦場は今や、「新しい知を得て知的好奇心を満たすこと」よりも、「既に発掘されている知のパッケージをトレンドに合わせて作り替え、正解の快感をノイズなく再生すること」に比重が傾いています。モノ作りをする人が少ないのに、広告代理店ばかりが増えている、と形容すればわかりやすいでしょうか。そして、「正解すること」と「努力が報われること」によって繰り返し脳に流れ込む肯定の快楽信号に慣れきってしまった我々にとって、自分が知らない、知りようもない知識に触れ続けるのは、時に「あなたの知(あるいはこれまでの努力)への否定」としての側面すら持ちうるものであり、慣れ親しんだ肯定の快楽など発生しようもなかったのです。


 このことをOUQSにいた長い時間で少しずつ自覚していった僕にとって、自分の9年のクイズの結実たるWMを開催することは、現状への明確な反抗でありつつ、半ば自傷行為のようなものでもありました。だって、「あまり知られていないけど面白い題材」の濃度を当時の自分ができる限界まで高め、トレードオフで競技性と正解しやすさを切り捨てた大会を開くのは、肯定の快楽に裏打ちされた競技クイズ文化と真の意味で相いれるわけもなかったのですから。実際に、あなたがこれまで最も正解を積むことができた、プレイヤーとして最も「肯定」された大会を想起してみて下さい。どんな規模・傾向の大会かはわかりませんが、問題の面白さの絶対値では、WMはそう負けることはないと思います。でも、思い出の中の満足度は、どう頑張ったってWMは勝ち目が無いんです。大抵は僕のほうが世界を愛し、世界のまだ見ぬ面白さに目を向けてクイズを作っているはずなのに、その煌めく面白さは“気持ちよく正解されやすい”姿で生まれ落ちなかったばっかりに、“普通”の正解の1つ、ともすればどうでもいいような正解の1つに負けてしまうんです。昔いつか聞いた「正解すればなんだって楽しい」という言葉は、残酷なまでに正しかった。


 この、原点だけを愛してしまったがゆえの消えない苦しみを横目に、クイズ界は日に日に「肯定中毒」に溺れゆきます。その結果、肯定することだけが目的化した「肯定装置」としてのクイズ大会が、その存在意義だけで幅を利かせるようにもなりました。STU系列の大会に未だに何百人も人が集まっていることがその実例でしょう。「クイズにする」ことだけを念頭に置いた不自然な出題スキームと、少なくない過去問からの無批判な流用によって、正解による肯定、努力が報われる肯定を工業的に得られることだけが取り柄の大会に成り果てている…というかねてよりの僕の批判は、決して言い過ぎではないと思います。工業的な肯定によって満たされる承認欲求がその後のクイズを下支えするという側面を否定はしません。しかし、その肯定を得るための決して楽でない道のりの中には、もはや建前としての知的好奇心すら消し飛んでしまっているのではありませんか?過去問に必死にかじりつけるほどの熱意のポテンシャルが備わったあなたなら、ともすれば僕よりも未知の知を愛せるはずなのに。
 しかし悲しいことに、そんな粗製乱造された問題群の中で実際に飛び出る正解の1つは、正解の出なかった良質なクイズ体験に、快楽信号の大きさではあっけなく勝ってしまうんです。クイズが「答える」ことと不可分な営為であることを勘案しても、知を愛することに端を発する文化として、こんな悲劇があるでしょうか。

 


STU系列への批判(主に問題の質を改善せずに大会を粗製乱造していること)は今後も続けますが、実は僕が所属しているサークルの野田高生はστυへの参加がきっかけで発足した団体です。
僕にとっては本当にそれだけですが、あくまで功罪の「功」を否定するものでもありません。




競技人口の拡大と「断罪」


 また、昨今際限なく続く競技人口の拡大により、サプライヤーの増加や単純なルールの工夫では如何ともしがたい壁が生まれ、現実的に与えられる「肯定」の一人あたりの機会が有意に減少しました。実際、abcのペーパー通過48人に名を連ねることは、僕がクイズを始めた当時よりはるかに難しくなっていることでしょう。中高生の例会でもしばしば紙落ち(またはそれに類する制度)が設けられるようになり、サークル内レベルの企画でも、部屋別進行をしなければ全員を捌けないようになりました。


 その結果、形式上は「肯定」の授け手であるサプライヤーは、肯定の機会を与える対象を選択することに正当性を持つため、にわかに神性を帯びるようになりました。つまり、参加者の知識の多寡を断罪する審判者としての立場が、今までにもまして強調されるようになったのです。



 「これを知らない人は壇上に立っちゃいけない」、「ちゃんと差がつくペーパー」、「知らない人を弾ける前フリ」……競技の場から身を引いた今も聞こえてくる言葉です。発言者に悪意がないことはわかります。だって、「同じお金を払った人の中から価値体験が得られる人を選別してよい」という構造そのものが既に緩やかな暴力なのですから、発言者が悪意など込める必要がないのです。こういった言葉が日常的に飛び出ることからもわかるように、こんにち「知の足りない者を“正しく”見つけ出し、その肯定機会を奪う」という断罪は構造的暴力として競技クイズ文化に深く、深く根を張っています。疑問を持つ猶予すら与えられなかった人もいるでしょう。


  増え続ける競技人口に競技性を担保しながら対応するため、クイズに「弾く」側面が強調されていくことはある程度やむを得ないでしょう。むしろ、やらなくて済むならやっていないようなことです。また、僕も競技に全くアジャストできないほど不器用ではありませんから、知を得る過程がある程度「努力」とみなされること自体を否定するべくもありませんし、そういった努力が求められることがわかっている場に臨んだ時点で、ある程度の「断罪」を甘んじて受け入れる覚悟は持つべきです。


 しかし、こう長く競技クイズシーンを見ていると、何柱いるのかわからない神たちから「断罪」を下される危機に瀕し、もはや苦痛と形容すべき努力に身を投じる若手プレイヤーの姿を幾度となく見てきました。覚えたくもないことを覚え、見たくもないものに目を向け、「もうクイズが楽しくなんてないだろう」と思ってしまうような形相でAnkiや過去ペーパーを回す人もいます。僕の目には、これらはもはや「強くなりたい」という願いの結果というより、「劣等者として断罪されたくない」という恐怖に支配された結果という側面が強く映るのです。ただでさえ「自分が何も知らない」ことをまざまざと思い知らされる世界です。今後、競技人口の拡大とともに「断罪」の文化が際限なく拡大し、居場所を求める哀しい競争がさらに激化したとき、「もっと世界を知りたい」というポジティブな欲求より、「劣等な自分でいたくない」という強迫観念にも似た欲求が競技シーンを暗く覆うと危惧しているのは、僕だけなのでしょうか。


 現実問題として、知の発見より人の選別に目を向ける「断罪」の暴力性に絶望して競技クイズから身を引く人間が出てくること、そして現状の枠組みに適合した人間だけが生き残り、枠組みを再生産することは今後如実になってくるでしょう。「競技クイズ」は本来「競技」でありながら「クイズ」でもあり、その比重は各人でスペクトラム的に異なって然るべきはずです。しかし現状、「競技」にフルコミットできなかった人間が競技チックな場以外からも淘汰されていくことに、僕は強烈な違和感を覚えるとともに、深刻な危機感を抱いています。あんなに面白い問題を作れる同期も、何時間でも聞きたい謎の知識体系を構築していた後輩も、気付けばみんなクイズから離れてしまいました。


AQL関西東部で優勝した野田高生。不動の0☆を抱えているのに全員で計30☆くらいあるらしいです。良いチームでした。
一応ですが、上の文章は、生き残った人間を糾弾しているわけではありません。結果的にそうなってしまう現状の枠組みと、それを駆動する「断罪」の負の側面に、趣味としての未来の狭さを危惧しているのです。





WMの理想


 だから僕はWMで、「肯定」の矛盾と「断罪」の選民性に反抗する手段として、参加して頂ける皆さんに対して、そもそも肯定と断罪を一切しないことに決めました。
 参加者の皆さんに「正解しても肯定されるな」と望むわけではありません。正解に一定の価値体験を見出すのは自然なことです。しかし作り手として、「少なくとも僕は肯定も断罪も目的としていません」というスタンスを体現しようとしました。最初に述べた「脱肯定、脱断罪」というコンセプトは、本当にそのままの意味なのです。


 なぜなら、僕が僕の問題で誰かを肯定しようとしているうちは、犠牲者が増え続けると考えたからです。僕の作る問題は、自分で言うのもなんですが、それなりに面白い部類に入ると思います。そして、これからももっと面白い題材を見つけるつもりです。しかし、「面白いこと」と「知らなかったこと」は表裏一体とも言える関係であり、面白ければ面白いほど、原義で「肯定」される人間は減ってしまいます。そうなったとき、その上さらに僕が「これをこう知っている人を評価するし、ちゃんと知らなかった人は弾きますよ」という目的意識のもとクイズを実装したなら、大会として肯定を得られる人があまりにも少なく、そして断罪される人が多すぎた。そして、必ず会場に一人いる「最も優勝から遠かった人」に――本来最も得られるものがあったその人に――、「絶対的敗者」の烙印を押して会場を去らせることになってしまう。それは、知的探求に起源を持つ文化として、悲劇以外の何物でもないのではないか、と、そう思ったのです。


 だから、僕は絶対に「知らなかったあなた」が劣等者として断罪されてしまうような問題作りはしなかったし、逆に「これをこう知っていると良い」という僕からの肯定を前提に問題作りをすることもありませんでした。結果的に正解者が肯定されることは当然あったでしょう。「求めていたことを知らなかった人が弾かれる」ことになってしまった悲しい例もありました。しかし少なくともスタンスとして、肯定と断罪を明確に唾棄したのです。その一方で、あなたたちへの500回の問いを通じて、これまであったどんなクイズ大会よりも、この世界を礼賛しようとしました。我々が生きる世界はこんなにも面白い、それだけでもう十分でしょう、と。この世界が実はこんなにも煌めいていて、それに皆で感動できるなら、問いをどういう人が“正解”して、どう肯定され、どう点を積むかなんて、心の底からどうでもいいことだと思ったのです。そして、作問者たる僕がこの世界をただ礼賛するのならば、偶然正解できたあなたも正解から遠かったあなたも、僕が作る問題そのものの有機性によって、まわりまわって肯定されることにもなるのだろうと思い至りました。周りと争うクイズプレイヤーとしてではなく、この眩しいほどに面白い世界のどこかに今生きている人間として。


 そんなコンセプトのもと開催するWMに僕が目指しているのは、どんな人も断罪されることがなく、そしてどんな人でもこの世界を愛せる、少し悪意に染まった知的空間です。「どんな人も」というのは修辞ではなく、文字通りの意味です。生き馬の目を抜くクイズ界を長年生き抜いてきた大樹のようなプレイヤーも。肯定と断罪が交差するクイズ界で生の隘路にはまり込んだ、まだ何者にもなれていないプレイヤーも。陽の光に欲深い大樹が影を作ればたちどころに枯れてしまうような、たったいま芽を出したばかりのプレイヤーも。競技人口が際限なく拡大し、秩序の破壊と新しい価値観の登場がこれまで以上に交錯するであろう今後のクイズ界において、これら全員が価値体験を得られる場を創るために必要なのは、肯定機会の増加ではなく、一次的な肯定そのものからの脱却だと、少なくとも僕は考えたのです。例の口上がその表れだったというのは、まさにそういうことです。


おわりに


 この文章は、肯定と断罪のもたらす快楽に支えられて一大競技に成長しながら、その快楽に溺れゆき未来を閉ざしつつあるクイズ界に捧げる、僕なりの未来派宣言です。競技に迎合できず、9年もクイズをして0☆。何度も何度も何度も断罪を受けてきたなかで、僕はしたたかに「生き残った」人間です。しかし、これまでの歴史の中には、その荒波に耐えることができずにクイズを辞めていった僕が数えきれないほどいたはずなんです。そういう人をもう一人も出したくないという究極の自己愛から、僕はWMの設計思想を組み立てました。


 現状のクイズ界の枠組みと、このnoteにしたためた僕の理想がまだ相いれないのは事実です。また、その理想の実現のためには、クイズという手段に頼る必要がない、と思う人もいるでしょう。でも、まだもう少しは頑張ってみるつもりです。なぜなら、僕はどうしようもなくクイズが好きだからです。


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