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辻潤のひびき「実話蔵前夜話」

辻潤のひびき参考資料>6.辻美津 「実話蔵前夜話」

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實話藏前夜話

辻美津  述
桑原國治 編
 辻美津さんは只今パリーにおゐでになる辻潤氏のご母堂であります。
 會津藩の家老田口重義氏の長女と生れ、後お藏前の札差辻四郎三氏の養女になられた方であります。
 さしも豪奢を極めたところのお藏前十二人衆の家系も、今では僅に數指を指折るほどに影をひそめ、當時の面影を知る高齢者とても、ご母堂を除いては恰ど絶無と云つていゝくらゐでありませう。
 藏前夜話は、その豪奢濶達の雰圍氣のうちに育まれたところのご母堂の思ひ出話の一端であります。

札差生活 一
當時お藏前の札差は十二軒ございまして、俗にこれをお藏前十二人衆と申しました。けれど、皆なお藏前にをりました譯ではございません。
 お藏前片町に青地四郎左衞門、青地幾次郎、それから私の養父の伯父の太田嘉衞門、森田町に山口清七、須賀町に伊藤重兵衞に井筒屋、さうして私の養父の辻四郎三、代地へ參りまして三村に大谷、新堀端に村林四郎兵衞に吉村、名を忘れましたが、玉木屋横町にも一軒ございました。そこは早く没落いたしまして、娘は公園で踊り師匠を始め、その弟は吉原の太鼓持になりました。
 尤も、そこの家ばかりではありません。只今、と申しましても、あの震災の前まで、當時のところに殘つて居りました家と申したところで、森田町の出口清七、須賀町の伊藤重兵衞、代地の大谷、片町に二軒の青地など位のものでございました。
 そこで、札差の家構へを申しますと、何處も恰ど一様なものでございました。
 外構へは二尺も巾のあらうと云ふ通し鴨居、間口の半分は出格子、あとの半分が荒い厳丈な格子戸、店の内はやはり半分が土間、どつしりとした欅の上り框を通して半分が疊敷き、その奥には黒光りのした帳場格子が据つてをります。蹈み固めた巾の廣い土間は、づつと裏口まで抜けてをります。さうして、その先には幾戸前かの藏が建續いてをりましたものでございます。
 太田の裏には三戸前の藏がございました。そのうちの一戸前などは、伊勢屋の馬鹿藏などと申されて、三階建の大きなものでございました。
 あの有名な首尾の松は、二番藏の前の入江の岸にございました。柳橋あたりから夕涼みの船を出して、一寸舫つて置くには恰好なところでございました。それも今はもう跡形もないことでございませう。
 幸ひ、古書類のなかからその當時の芝居茶屋の書付が出ました。年代は分りませんが、四月十日と云ふ日付がございます。書付にも認めてある通り、十二人衆が連中で芝居見物をしたものと見えます。これによつて、當時の暮し向きの一般が一寸想像出來やうと思はれます。書き上げて見ることにいたしませう。
  覺
一、二百二十六分 平土間御敷物料 貳間分
一、百十三歩   ゛       一間分
一、九百八分九朱 繒本番付六組、御菓子代すづりぶた、御鉢肴、さしみ、御すし、水菓子、御酒、御辨當十三、玉子四十五、御辨當一、口とり、御茶わん四、御あつらひ物、水菓子二鉢、御すし、御菓子おかわり、夕飯、御二つ物、御伺ひ付、御わん盛、御飯十四人前、玉子やき、御酒
  〆
一、二分     龜吉
一、二分     小菊お座敷代
一、一朱     御たばこ
 惣〆二十一兩三分二朱
  右之通り  外口とり
   四月十日
        紀 の 清
 御藏前御連中さま

 まあかう云ふ具合でございます。何しろ米一俵が一兩ぐらいと申す時代でございます。この紀の清と申しますのは、猿若町二丁目中村座の芝居茶屋でございます。
 この外にもう一枚書付がございます。これは小間物屋のでございまして、母の注文ものに一部私の品が入つて居ります譯でございます。

  覺
 鼈甲かんざし  一對  三十五兩
 同さし込    一組  七  兩
   〆
 右之代金慥ニ請取申候以上
 午三月晦日
      萬 屋
       吉 兵 衞
  片町さま

 これで當時用ひた髪道具の價なども分りますし、後にお話し申し上げる、踊りのおさらひに使つた象牙の櫛や簪の贅澤なものであつたことなども想像できることゝ思ひます。

札差生活 二
 養父は繒心もございましたし、俳句にもなか/\凝つてをりました。俳號を知一と申しまして、札差衆や宗匠などを集めてよく運座をやつてをりました。
 でございますから、例へば私の踊りの衣裝にいたしましても、當時馬喰町四丁目にあつた關岡と申す能衣裝屋へ參りまして、他の方には氣づかないやうな變つた帶などを掘出したり、染物は自分で模様を案配して兩國の竹仙へ誂へると云ふ具合でございました。
 當時のことを考へますと、まるで物見遊山に月日を送つてゐたやうに思はれます。年中行事に四季折々の物見遊山、その行先々にはそれ/゛\當時の有名なお茶屋が控へてをりましたものでございます。
 例へば向島のお花見歸りには中の植半か魚十、または土堤下の柏屋などへ寄ります。
 四ツ目のぼたん、龜井戸の藤、堀切の菖蒲、その當時はあの邊はほんとに閑靜な田舎でございました。で無論お茶屋などございませんので、歸りは山谷の重箱か八百善あたりへ廻つたものでございます。
 養父は團十郎贔屓なものですから、朝顔の季節には柿色の朝顔をよく入谷から届けさせたものです。その入谷の歸りは根岸の笹の雪か山下の揚出と申す具合でございました。
 夏になりますと王子の瀧、當時名主の瀧と申しますは、いかめしい冠木門構えの家でございました。瀧の見える座敷へ通されて薄茶か何かをすゝめられました。まつたく、固苦いお瀧拜見と申す恰好で、子供心には返つて夏を暑く感じたものでございます。そこへ參りますには、いつもお菓子の折を手土産に持つて參りました。其の時分、王子にはゑびやと申すお茶屋が一軒ございました。
 菊は團子坂、植十の菊が一番評判でございました。さうして、そばやのやぶが名代でごぎいました。
 それから秋草の百花園に紅葉の瀧の川
 けれども私は、かうした物見遊山よりも、やはり芝居の方が何よりも好きでございました。で、かう云ふこともございました。
 或時、私は空耳を病ひました。いろ/\手段をいたしましたが、どうも思うやうに痛みがとれないで苦んでをりますと、養父が芝居へ行つたら治るだらうと申されたので、私は早速泣顔をつくろつて芝居へ參りました。けれど、いくら好きな芝居でも、病ひだけは直せませんでございました。
 當時の芝居と申しますと、何しろ朝の六時から始まるのでございますので、參る時には夜起きをして仕度にとりかゝらなければなりません。もうその前夜のうちに、あれでもないこれでもない、と思案した揚句、やうやく定めた着類を各々風呂敷に包んで、明日の來るのを落着かないはしやいだ心持ちで待つたものでございます。
 さうして、或時は鋭鎌のやうな月をいただいて、凍てついた大川の風を身に滲みながら、またある時は、曉靄のたち込めた宮戸川の涼風に向つて、山谷堀へと船をのすのでございます。
 私は、實父も養父も船が大變好きでございましたので、大抵船で參りました。山の手から出かけて來るお客の駕籠の提灯の蝋燭が、恰度藏前へかゝると一本たち消えるのださうでございまして、店の若い者が、また猿若町か! などと申したものでございます。
 船は山谷堀へ入つて待乳山の岸へ着きます。それからづつと猿若町の芝居茶屋へ繰り込むのでございます。まつたく、當今の方々にお話し申したところで想像が出來かねることでございませう。それからまた芝居が打出して、茶屋の女中衆が名入の提灯を持つて堀まで見送つて參ります。それがまた一入風情を添へたものでございます。

澤村田之助
 父の田之助贔屓は一通りのことでございませんので、田之は田口さんのかげまだなどと申されたくらゐでございました。
 何しろ髪は鬘下、額の上に紫の巾を載せて引眉毛でございます。さうして、よく寒菊模様の振袖に金緞子か錦の中巾帶を締めて、父の傍へしやなりしやなりと寄り添ふものでございますから、母なども、田之のやつほんとにいまいましいつてありやしない。などと申したものでございまず。
 當時田之助は、實兄助高屋高助が出してをりました、今土のお茶屋有明樓に一緒にをりました。でございましたから、父はやはり助高屋を贔屓にいたしまして、呉服橋の大土屋から船でよくその有明樓へ參つたものでございます。
 田之助と一緒に、助高屋もよく宅へ參りました。時には、五代目も見えたこともごぎいました。助高屋は、浪に千鳥などの裾模様の黒の着付けで、やはり緋縮緬の長襦袢などをつけて居りました。
 田之助は酒の上が誠に惡うございました。或時、芝居の歸りに、母が田之助を妙見の橋本へ連れて行く途中で、どうしたことからか、醉つてゐた田之助は、母の着替への着物の包みを船からいきなり河へ投げ込んだことがあつたさうでございます。で、博多の帶へしみを出してしまつた。と、よく母が申したことなどもございました。
 それから、あの足の手術でございますが、慶應貳年でございましたか確かなことは分りませんが、兎に角ベルツ博士が來朝いたしました時、父が田之助を横濱までやりまして手術を受けさしたのでございます。何でもその時の費用は二百兩もかゝつたらうと申すことでございます。
 田之助の芝居で今もつてはつきり覺えてをりますのは、鬼人お松、お靜禮三、八重垣姫などでございます。それから、中橋廣小路の裏通りにございました中村座、この座は僅の間でなくなりましたが、そこでやりました天草騒動の天草四郎、助高屋がまだ訥升と申した時代でございます。
 最後が、國性爺の作りかへの錦祥女で、これはたしか明治四年頃一丁目でございました。この時は柳橋藝妓が十人ばかり譽め言葉に出演いたしました。それが中幕で二番目が小糸佐七、五代目の佐七に芝居茶屋のおかみが田之助でございました。あやめ踊りの三下りを當時の國太郎と歌橘が踊りました。
 田之助の錦祥女の目のさめるやうな姿は、あれが足のない田之助かと思はれました。今日でも、その舞臺があでやかに眼前に浮ぶくらゐでございます。
 その舞臺を最後として、田之助は惜まれながら引退いたしました。さうして、紀伊之國屋と申す茶屋を一丁目に出して、その帳場に坐ることになりました。
 それからと申すもの、一丁目のお若い女のお客さまは、みんな紀伊之國屋から通るやうになつたと申されたほどでございます。
 その紀伊之國屋で思ひ出すことは、老母に連れられて、久しぶりに田之助に會つた折、田之助の似顔の人形を貰つた時のお笑ひ話しでございます。私はその人形を手にすると直ぐに、田之助の前で、人形の着物の裾をまくつて見たものでございます。つまり、子供心に、田之助の顔に似てゐる人形なので、やつぱり足もないのであらうとでも思つたのでございませう。
 當今の言葉で申したなら、その時田之助は、さぞ微苦笑をもらしたことでございませう。と只今でもよく思ひ出すことでございます。
 それから、田之助の逝なりましたのはたしか三十七歳位で、田甫の太郎稻荷の附近に住んでゐた時のことと思ひます。

國周のびら
 當時、御本丸の狂言師をしてをりました藤間らくと申す方が、日本橋箔屋町で踊りの師匠をしてをりました。
 私はまだ實父の田口家におりました時、その師匠に手ほどきをして頂きました。
 或る年のその師匠の大ざらひの時、八丁堀の與力、込山鹿田の兩人からお贈ひものが參りました。それには當時錦繒で有名の國周の繒びらがついてをりました。
 そのびらは、疊半丈を一寸細目にした位の金巾で、その時の私の出し物久松と七夕娘に因んで、左の下の角へ蛇の目の傘を半分ばかり覗かせ、右の上から左へ笹と丹尺などをあしらひ、まん中に大きく蒸籠五十荷と書いて、下の右のところに國周と書印がしてございます。それはまだ保存してございますが、何しろ六十年も前のものでこざいますし、机掛などにしたものですから、もう恰どだいなしになつてをります。
 その後、私が藏前へ參りまして間もなく、その師匠は娘のみよに後を譲つて、自分は引退することになりました時、一世一代の大ざらいを兩國の中村樓でやりました。
 私は、その時墨染と小倉山女盗人と申す狂言を出しました。
 その狂言は、恰度前の月、先代芝翫が二丁目中村座の出しものでございました。で、踊る當人よりも、それは何處の親ごさんもさうですが、養父の方が大凝りに凝つて、芝翫の使つた着付や小道具と同じやうに、象牙の櫛や簪を造らせる、竹仙で衣裝を染めさせる、と申すやうな具合で、今考へて見ますと馬鹿なお金をかけたものでございます。
 當時、馬喰町四丁目に杵屋勝三郎が居りました。
 この人は、藤堂さまや有馬さまへお出入して居りまして、お弟子も大相多ございました。みんな、相當の家の娘やなにかでございました。と申すのは、月さらひ、四季のさらひ、付合さらひ、またその上、勝三郎が芝居に出て居りました關係で、よく連中を作つたものでございます。で、なまぢつかの家ではかゝりがしてやり切れなかつたものと思ひます。
 その連中で思ひ出します。明治九年頃のこと、芝金杉に川原崎座と申す小屋が出來まして、やはり勝三郎の出る關係から連中をやりました。
 役者は團十郎、門之助、新十郎、それに出牢して始めて舞臺に立つた璃鶴、璃鶴はその時權十郎と改名いたしました。
 權十郎が入牢いたしました譯は、關係してゐたおきぬと申す他人のお妾が、その主人を毒害したことに連れてださうでございます。
 その時の狂言、正宗の作り替えと團十郎の地震加藤を覺えてをります。
 それから、これはもつと以前、明治三四年頃のことと思ひます。猿若町三丁目で法界坊と阿古屋を出しました。阿古屋は先代芝翫でございました。その阿古屋に使ふ三曲の三味線が無いと申す譯で、勝三郎の三味線を芝翫に貸したと云ふ話でございます。
 その勝三郎の春の大ざらひが兩國中村樓にございました。明治五年のことと覺えて居ります。
 私は、鞍馬山のひとり謠ひでございました。何しろ、立が勝三郎、上調子が内弟子のおちか、その外喜三郎、お囃しが呂仙の太鼓に太左衞門の鼓、と申すやうな大がかりなものでございました。何しろ、囃方の禮金だけでも十五兩もかゝつたさうでございます。

兩國界隈
 明治も四五頃までは、廣小路界隈もまだまだ江戸時代の趣きがございました。
 あの通りの眞ん中へ、燒鳥屋、おでんや、しるこ屋などの屋臺店が出ました。夜になりますと、水茶屋の姉さんがおつくりをして竝びました。無論氷などはまだございません。麥湯や葛湯などを売つたものでございます。
 見世物には美人の足藝、やあとこせ、覗き眼鏡、一人角力、講釋師、やれ突けそれ突け、このやれ突けそれ突けではとんだ失敗をいたしました。
 私はお稽古から歸りますと、天保錢を一枚持つて、お友達と廣小路へ行くのが樂しみでこざいました。當時、天保錢一枚は、子供にはなか/\遣ひでがございました。
 ところで、或日、見世物小屋の横に立つて内を見ますと、若い女の後姿が見えました。何だか分らないが、まあ友達と入つた譯でございます。すると、それがやれ突けそれ突けなのでございました。
 十六七になる女が、友禪か何かの裲襠を羽織つて坐つて居りました。さうして、××××××ところを福助が赤い玉のついた棒で突くのでございます。突く時に、文久や青錢などを投げてやる見物人などもありました。
 私は、家へ歸つて、その話をして大變おこごとを頂戴したことがございました。その木戸錢が、たしか三十文位だつたと思ひます。
 それから、やあとこせ、初坊主と申して、眼の細いあばた面の滑稽な顔の男でございました。豆絞りの手拭の鉢卷などして、三味線挽きは女、ヤアトコセのあの傘の下に三四人集まつて、拍子木を叩きながらヤアトコセを唄つて賑かなものでございました。
 覗き眼鏡は、外國の風俗や景色などの冩眞を只覗いて見るだけですが、その當時には、まつたく物珍らしいものでございました。それも今考へて見ると、只の外國の繒葉書か何かで、他愛のないものに違ひないのですが、私などは、外國と云ふところへ行つて見たいなどと申して、母になまいきな子だ。などと申されたものでございます。
 當時、廣小路で名の通つた店を申しますと、そばやの加賀屋、鰻の伊豆屋、分厚のさし身のことを鯛京造りと申すほど通り名になつた、魚料理の鯛京、きせるの村田、御殿女中にごひゐきで、有名なあの四ツ目屋、繒草紙の菊屋さうして、昔天狗が酒を買ひに來てから店が繁昌し出したと言ひ傳へられてゐた、有名な四方と云ふ酒屋などでございます。兩國の橋向ふには、村右衞門、俗におででこ芝居と云ふのがかゝつてをりました。食べものやでは、當今も繁昌しております與平壽司坊主しやも、もゝんじやなどでございます。
 また橋を戻つて、藥研堀に參りますと、結城座がございました。こゝには九女八、鶴吉、松賀涛(?)童など申す女歌舞伎がかかりました。また時には、坂東鶴藏、後に彦十郎と申した役者が座頭で開けることもございました。たしかこの座は、明治三四年頃まであつたことと思ひます。
 それからまだ廣小路には、虎の看板を家根に上げた藥種屋の虎や、龜の年と申す洋酒を売りに出した唐物屋の神崎、少し離れて、當時名代の幾世餅、柳原のやきするめ、代地へ參りますと、茶碗で有名な松の壽司、羽織袴でお座敷天ぷらを掲けた金ぷら、など申す店が繁昌してをりました。
 また、加賀屋横町には、圓朝が出てをりました橘屋と云ふ寄席、その近くに柳亭と云ふ義太夫の席などもございました。それからまた、米澤町二丁目のあなご料理、尾張屋なども忘れられない店でございます。
 それから、江戸年中行事のうちの大物兩國の川開き、何と申しましても人出では横綱格でございませう。
 私は、出入の船宿、元柳橋の鈴木屋から、養父と一緒に、藝者の二三人も連れて見物に出かけたものでございます。
 河は屋形船や傳馬船で一ぱいになつて、時には、河面から船がせり上がるかと思はれるくらゐでございました。
 打ち掲げ花火に仕掛花火、玉屋、鍵屋の呼び聲、雛妓やお客のはしやぎ聲、その雜閙の中をくぐつて、枝豆売りや水菓子売り、冩し繒や聲色やなどとの船が押し売りにやつて參ります。そのうちに、お神酒の廻つた船頭などが喧嘩などを始めると申すやうな譯で、河の中はまるで屋島の船合戰と云つたやうな恰好になるのでございます。
 その歸りが、柳橋際に向ひ合つてゐた梅川や萬八、代地の柳光亭、その少し先きの川長又は裏河岸の生稻、と申すやうなお茶屋でゆつくりくつろぐと云つたやうな趣好でございました。

思ひ出す人々 一
 私の實父は田口重義と申しまして、會津藩の江戸家老でお留守居役兼勘定奉行をいたして居りました。
 會津藩の中屋敷、つまり実父の住居は俗に三島屋敷と申しまして、現今の呉服町邊に當るところにございました。
 私はその中屋敷で生れました。が、慶應二年には、會津藩の方々はそれ/゛\國表へ引き揚げました。それと前後して呉服町の中屋敷は取毀しになりましたので、私達一家は檜物町へ引き移りました。
 母は幸と申しまして、四谷信濃町お留守居與力、加藤市左衞門の三女でございました。十八歳の時田口家へ後妻として入つたものでございますが、父、つまり田口の死後、母の姉の嫁いでをりました、二千石の旗下、深尾と申すものの縁故で、辻家の四郎三の嫁として私諸共入つたものでございます。
 前申し上げたやうに、實父は會津藩の重役でございました關係から、官から狙はれて江戸中の知人から知人へと圍まはれてをりましたが、最後に、贔屓にしてをりました、先々代の三題話のむらくのすゝめによりまして、むらくの出どころ川越に遁れてをりましたところを捕はれまして、傳馬町の牢に入りました。
 父は肺が惡うございましたので、入獄中に大分弱りました。只今のやうに自由に差入などの出來る時代ではございません。が、母がよく、父が大層好きであつた、胡麻味噌などをつくつて持つて行つたことなどを覺えてをります。
 間もなく出獄いたしました父は、元老院議官に任命されましたが、もうお役にはつきませんで明治三年十一月、出入にしてをりまし呉服橋の船宿大土屋で逝くなりました。
 その時贔屓にしてをりました田之助は、父が息を引きとります眞際に、猿若町の舞臺から駕籠で駈けつけたさうでございます。
 父が傳馬町へ入牢いたしました時の牢名主が、後に三重縣知事になりました成川常義と申す方でございます。
 成川さんと父とは、入獄中兄弟の契を結んださうでございまして、明治三十五年成川さんが逝くなられるまでは私も繁々往復いたしてをりました。
 船宿大土屋の主人に一人の妹がございまして、猿若町へ芝居茶屋を出してをりました。
 私は芝居へ參ります時には、二丁目ではこの大土屋と中菊、三丁目では猿屋、と云ふ具合でございました。
 船宿の大土屋には一人の娘がこざいまして、前に申し上げた箔屋町の踊り師匠、藤間らくのところへ通つて居りました仲間でございました。
 或る年のおさらひの時、私はお俊傳兵衞を出しました。大土屋のおやまさん――娘の名はおやまさんと申しました。――は山姥を踊りました。何しろ、まだ頭が小さいので鬘がございません。お師匠さんが付髷を拵へるに苦心をすると云ふ騒ぎでごぎいました。
 當時は父の役柄、さうしたおさらひの席などへ顔を出すことは出來ませんので、其の後、そのおさらひを全部そのまゝ、柳島の橋本へ持つて行つて見ると申すやうな豪勢なものでございました。
 當時檜物町には、相正と申す有名な頭がおりました、やはり田口家の出入りでございまして、私の三つのお祝ひの時には、革羽織のきりつとした恰好で、私を抱いてお宮參りに參つたさうでございます。
 お宮と申すのは、當時日本橋西河岸にございました。根津權現と申しましたが、何時か何處かへ移轉してしまひました。
 私のうろ覺えでは、その相正は、當時四十恰好で、恰度芝居の新門辰五郎と云つたやうな男のやうに思はれます。
 その相正の娘におていさんと申すのがございました。當時――慶應二年頃――十八九にもなつてをりましたらうか。そのおていさんが後に澤村田之助の家内になつたのでございます。
 つまりおていさんは現代宗十郎の姑にあたりまして、この間逝くなつた宗十郎のお家内おちかさんのおふくろさんになる譯でございます。今まだご存命ですから八十位にもなられませう。
 そのうちに一度お目にかゝりたいと思つてをります。何しろ、田之肋を始め相正にしろ、大土屋にしろ、始終田口家に出入して居りましたことでございますから、お目にかゝればさぞいろ/\と思ひ出話がございますことと思ひます。

思ひ出す人々 二
 養父四郎三の母は、當時お藏前十二人衆の随一と申されてをりましたところの、太田嘉衞門の妹でございました。
 この嘉衞門と申す人は、今御存命でゐらつしやる、有名な彫刻家、高村光雲さんあたりにお伺ひ申したら細いことも分ることと思ひますが、佛像五百體を當時有名な佛師貞條に造らせまして、鎌倉の建長寺へ納めたと申す人でございます。今建長寺の樓門の二階に完全に保存されてをりますさうでございます。
 その嘉衞門の弟に嘉十郎と申す者がございました。これがまたなか/\の粋人でございまして、あの有明な、清元の明烏を作つた人でございます。
 この人は後に、淺草廣小路の本屋さん、朝倉屋の裏へ乙な家を建てゝ住んでをりましたが、やつぱり粋が身を食ふ譬へにもれず、終りがよいとは申されませんでございました。
 慶應二年、檜物町で火災にあひまして日本橋矢の倉に移りました。それから明治元年には其處からまた米澤町へ移轉いたしました。
 さうしてゐる間にも、父は父で、また私も母と一緒に、出入の者の家や知人の元に轉々としてをりました。後に分つたことでずが、官の目からさうして遁れてゐたのでございました。
 私が參つた家で覺えてをりますのは、神田佐久間町に居りました小松東助と申す方。この方は後に開花洗粉と申す洗粉を發明いたしまして、今で申すとクラブ洗粉とか何とか申すやうに流行いたしたものでございます。
 それから、深川清住町に居られました、北川長さんと申す御用達。この方は後に、荻江節の家元序遊になられた粋人でございます。御家内は柳橋藝者の小えつと申された方でございました。
 當時濱町邊は、なか/\小意氣な家が多かつたもので、元柳橋に出て居りました小鈴と申す女の圍はれて居た、五代目の別宅もございました。
 同藩會津出身の畫工、佐竹永海と申す方が矢の倉に居りまして、よく宅へ遊びに參られました。それから、後に、明治天皇に御指南申し上げた、草苅と申す馬術の名人が本所割下水にゐらつして、矢の倉の宅へよくいらつしたことを覺えてをります。
 前に申し上げましたが、杵屋勝三郎は馬喰町四丁目に居りました。そこへお稽古に通ひますに、やはり四丁目のかる燒屋、淡島屋の前を通らなければなりませんでした。當時、ほうそうやはしかのお見舞には、其處のかる燒を必ず持つて行くやうになつて居りまして、なか/\繁昌いたした店でございます。
 其處の家に保(ほう)ちやんと申す男の子が居りまして、米澤町にあつた玉江學校の朋輩でございました。少し足りないやうな變な子供でございました。その保ちやんがお店にをりますと、お稽古通ひの私達を呼び込んで、よくお店のかる燒をくれたものでございました。
 その保ちやんこそ、後に奇人變人傳中の人物となられた、淡島寒月さんであつたのでございます。
 當時あの界隈には、名のある藝人がゐたものでございます。藥研掘には踊りの西川けい。清元の家内太夫。米澤町に富本豐前太夫に一中節の以中。この以中は、父が贔屓にしてよく參りました柳橋のお茶屋、丹羽屋の後妻の兄でございました關係から、よく宅へは出入いたしてをりました。
 以中で思ひ出すのは、今日御存命の大槻如電さんでございます。如電さんもやはり以中についてお稽古なすつてゐらつしやいましたが、當時は大相氣むづかしやで、おさらひの時など、出し物や番組などによく苦情をつけて、以中はいつも泣かされたさうでございます。その上大酒家で、お若い時は大變酒の上がわるかつたさうでございます。
 でございますから、如電さんがお藏前にお住ひの時分は、ちよい/\お見かけいたしたものでござい主すが、子供心にも、お酒を飲むとこわいをぢさん。とよく思つたものでございます。
 それからづつと下つて、明治六年、長唄の新曲岸の柳が出來ました。曲は勝三郎、作歌はたぶん如電さんではなからうかと思ひます。
 その新曲の披露に出ましたのが、柳橋の小花、梅吉、小久、外十幾名と云ふ大連でございました。
 その梅吉、それは申すまでもなく、箱丁殺しで名高い花井お梅でございます。小久はおはまさんと申しまして、伊藤博文さんの最初のお妾になつた人でございます。それから小花、この人は先代左團次の御家内になりました。つまり現代高島屋の實母で、まだ存命のことと思ひます。

思ひ出す人々 三
 明治五年でございました。勝安房さんが、藏前の宅へ私をお見舞下さつたことがございます。
 どう云ふ關係からでございましたか、實父田口と勝さんとは、義兄弟になつてをりましたさうでございます。
 その時は一人の共を連れて居りました。なりの心づくりの勝さんは、茶ミヂンの袷に黒紬一つ紋のぶつさき羽織に地味な小倉袴と申す、質素な身なりでございました。
 私は、お土産を澤山頂きましたので嬉しうございました。
 其の日珍客にはいつも取り寄せる八百松のお料理で、勝さんは養父と暫くお話しなすつていらつしやいました。
 當時、向島長命寺の境内に、三浦乾也と申す陶工が釜を築いて居りました。宅へはよく出入してをりました。それに、乾山の作品などもございましたので、參考によく借りて行つたやうでございます。乾也はなか/\名人肌の酒のみでございましたので、始終窮乏して居たやうでございました。
 只今では、大願山にも匹敵するともてはやされてゐる乾也も、當時にあつては、乾也玉などと申す女の髪の根がけなども造つたものでございます。さうしてそれが、却つて珍重がられたのでございますから、世の中つて面白いものでございます。
 それから、渡邊省亭と申す明治中期の有名な日本畫家がありました。私は遂にお目にかかりませんでしたが、やはり藏前の札差の出ださうでございます。けれど、札差に渡邊と申す性はなかつた筈でございますから、ことによると、札差の出ではあつたかも知れませんが、渡邊と申す家に入つた人かも分りません。
 この方はたしか、外國へもお出でになつたと申すことでございます。
 これはづつと後、明治九年頃のことでございます。
 當時淺草福井町に、俗に温泉で通つてゐた湯屋がございました。その二階が、今で申したなら一寸クラブと云ふやうになつてをりまして、日下さん、さうして、後に日下さんの奥さんになられた、本町二丁目の山ノ内と申す旅館の娘、かめ子さんなどと。トランプなどしてよく遊んだものでございます。
 日下さんと申しますと、後に第一銀行の重役になられた日下義雄さんでございます。日下さんは、會津の御殿醫石田元道とおつしやる方の御子息でしたが、後に長洲藩の日下家に入つたのでございます。
 恰度その時は、日下さんが井上馨さんと西洋へいらつしやる前でございました。
 山の内かめ乎さんと日下さんとは、その當時から許婚になつてをりました、日下さんの洋行中は井上さんのお屋敷にをりました。
 かめ子さんと私は、當時有名な女學者、日尾先生の日尾塾の塾生でございました。塾は下谷御徒町三丁目にございました。塾生は男女で二百五十人位もをりましてなか/\盛んなものでございました。
 私はそこに寄宿してをりました。或時私は、――毎晩/\八杯豆腐のお汁やむかごの煮たのにて閉口いたし候――と寄宿舎のお惣菜のことを手紙に書いて、家の人達に笑はれたことなどもございました。
 日下さんが、明治十二三年頃歸朝なされまして、築地にお家庭を持ちました。  私は、其の時分は恰度日下さんのお宅にをりした。さうして、よくお遊びにお出でになつた方は、みんな當時の婦人先覺者の方々でございました。
 今日御存命の津田梅子さん、會津の家老山川さんのお嬢さんで、後大山さんにお嫁きになつた捨松さん、それから井上馨さんのお嬢さんの末子さん、この方は後に勝之助さんをお迎へになりました。まあかう云ふ方々でございました。
 で、明治二十四年、お藏前にございました伊勢屋の馬鹿藏も、また家屋敷も、みんな日下さんにお譲りいたしたやうな譯でございました。
 其れ以前、私達一家は、一且お藏前から、養父の隠居所になつてをりました、向柳原一丁目の家に居りましたこともございます。
 その家は、元醫學館と申しまして、江戸の醫者の集會所のやうなものだつたさうでございます。これを養父が貰ひ受けて、雜作やら手入れやらをいたしたもので、なか/\凝つた家でございました。
 その後、隣地の柳北學校が擴がるについて、私の家は立ちのきました。只今、學校の庭から往來へ枝垂れてをりますあの柳の大木は、當時から私の家の庭にあつたものでございます。只今フランスに居ります長男辻順は、あすこで生れたのでございます。
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入力注:
(1) 底本」『文藝春秋』昭和三年十二月号
(2) なるべく原文に近い字を採用した。表現のおかしいところもあるが、そのままにした。
(3) (?)のところは、判読が不確か。
(4) 傍点の付いているところは、斜体を用いた。
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