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辻潤集月報2

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辻潤集 月報2

東京都目黒区宮前町一七四
近代社

―略歴―
明治17年10月4日 東京浅草向柳原町に生る
明治28年(12歳)神田淡路町開成尋常中学に入学。同級に齊藤茂吉・村岡典嗣・田辺元等あり。
明治32年(16歳)神田の国民英学会に入る。内村鑑三の著作に親しむ。
明治42年(26歳)上野高等女学校の英語教師となる。
明治43年(27歳)伊藤野枝と結婚、岩野泡鳴に親しむ。
大正3年(31歳)「天才論」の訳著出版。文擅にデビュウ。
大正5年(33歳)大杉栄、堀保子、神近市子、伊藤野枝の四角関係で騒がれる。武林無想庵と親しむ。大正5年より昭和2年頃までスティルナア等の訳書発表、亦多くの随想評論を発表する。
昭年3年(45歳)文学研究のためと読売新聞社第一回特置員として渡欧。
昭年7年(49歳)精神に異状を呈し齊藤茂吉の診察を受く。昭和年17,8年頃まで多くの作品を各誌に発表。
昭和19年(61歳)東京の上落合桑原国治方アパートでひとしれず悲惨な死を遂ぐ。

刊行の言葉
 今の日本では本当に価値のある本は大体売れないし、そうした価値が発見されることは殆んどない、とサジを投げていたのでは初まらない。「何と日本という国は仕事に張合いのない国だ」とは、辻潤がパリにいた筆者に書き送った手紙の一節であるが、日本でも少数の人間はサジを投げながらも「どうすればいいのか」と真剣な気持になっている。私は敗戦の日本に戻ってから、ジイドが一流の哲人エッセイストとして認めた辻潤の「ですぺら」や「絶望の書」を読み返し、彼の思想の偶然な共感者だと思われる「唯一者とその所有」の著者スティルナーの評伝を草しながら、純粋な感情と認識の所有者、稀代異色の人間辻潤のいだいた「絶望」が、今日ある日本の姿を悲しくも預言していたばかりか、その「絶望」に巨大な希望が切々と綴られていることを思い、彼の本を再刊して無偏見な孤独者のみが持つ人間愛と祖国愛の清浄な灯をかきたてて見ようと念願していた。
 私は恐る恐るマッチをすった。少量ながら油は枯渇せずに残っていた。近代社の厚意と、辻潤を知る少数の友人の情熱で火は燃えた。去る十一月廿四日辻潤の十回忌に染井の西福寺に集った四十余名の人々の中には希望の象徴である青年もいた。
 辻潤の著作再版は日本にとって価値の転覆をめがけた文化的なひとつの事件だと筆者は信じている。もし反対にこれが依然ナンセンスであったなら、日本は正に全身黴毒菌に侵された 「救われない国」である。
 私は辻潤と共に「おゝこんとれいる」と叫びたい。
辻潤集刊行世話人代表 松尾邦之助(読売新聞社副主筆)

十二社の園遊会
社会評論家 山川均

画像5

 この写真を見ると、(本書辻潤集第一巻浮浪慢語口絵―角筈十二社における記念写真)私より年上の先輩たちにしても、じつに若かかったものだ。しかし存命の人はひとりもない。この五十三人のうちで、私に指名のできるのは二十一人で、見覚えはあるがちょっと名前を思い出せない顔が数人ある。その二十一人のうち死亡の確実なのが十一人、私の知るかぎりでは健在なのはわずかに三人だけだ。十一人のなかには明治四十二年のあの大逆事件の犠牲者三人(幸徳、森近、新村)がふくまれでいる。
 この写真のなかに辻潤氏のいられることを私はいままで知らなかった。最後列の立っている人たちのなかに中里介山氏のあることも、ごく最近に聞いたのである。
 明治三十九年には、いままでの軍閥官僚内閣にくらべるといくぶん進歩的自由主義的な西園寺内閣ができ、社会主義運動にたいする取締りもいくらか緩和され、日本社会党が社会主義の政党として、はじめて合法的に存在がゆるされた。ところが軍閥官僚はなんとかして政権を奪還しようとして、はじめは財政問題で西園寺内閣の倒壊をくわだてたが失敗したために、こんどは前年来の社会不安や労働不安を西園寺内閣の社会主義運動にたいする緩和政策の結果であるとし、西園寺は国家を破滅にみちびく反逆行為を庇護しているものだとして、ひそかに天皇に訴えるといったような、あらゆる陰謀的な手あいで倒閣をこころみた。こういう圧力のために、西園寺内閣の社会主義運動にたいする方針も一変し、四十年ニ月には日本社会党は解散を命ぜられ、党の機関新聞も弾圧された。
 日本社会党の解散とともに、社会主義運動は革命派と改良派との二つの分派にわかれたが、このような分派の発展は、一つには政府の弾圧政策にたいする反応のしかたの違いにもよるものであった。この年の八月一日から十日まで、社会主義夏季講習会が開かれたが、講演者は『社会主義史』田添鉄二、『法律綸道徳論』幸徳秋水、『社会の起源』堺利彦、『社会主義経済論』山川均、『労働組合綸』片山潜、『ストライキ綸』西川光二郎で、両派から講師を出しているが、この講習会がおそらく両派の協力した最後の機会であったろう。
 会場はもとの麹町区の飯田町、九段坂下のユニヴァザリスト教会堂で、毎晩三時間、聴講者は七、八十名くらいで、三分の一か四分の一は地方の同志であった。八月六日は角筈の十二社での園遊会にあてられた。
 考徳、片山、田添、森近らの演説やあいさつのあった後、この日ばかりはやかましい議論やつの突き合いはやめて、和気あいあいの一日をすごした。このときの記念撮影がこれである。

明るい楽天家
作家 尾崎士郎
 私か辻潤に、はじめて会ったのは三十余年前で、悪友茂木久平と二人で、はじめて吉原へゆき、帰りの電車賃がなくなって上野まで歩いたところで、茂木が辻潤の家を思い出し、いっしよに訪ねていったのである。『パリ紀行』の中に、ときどき蔵前の寓居の窓からガス灯のともる夕方の街を思い出す、ということが書いてあったが、たぶんその家であったろう。
 当時の夫人は伊藤野枝女史であり、家庭は至極円満だった。
  『辻さん』(私たちはそう呼んでいた)は上野女学校の先生をやめたばかりのときで、私の眼には人のいいおじさんというかんじだった。
 彼は典型的な江戸っ児であり、スチルネルの思想はその当時でさえ彼の生活の中にしみこんでいたが、駄洒落や軽口のうまさは英文学者としての彼の際立って明るい楽天家らしい形式にまでもりあげていた。そのとき、彼は、『そばでも食ってゆけよ』といって二十銭私たちにくれた。茂木と私は帰りの電車の中で、この幸福な家庭人の生活を讃美しあった。それほど彼は人生を愉しんでいるように見えた。
 私は今でも思う。もし、大杉事件がなかったとしたら後年の辻潤は存在しなかったかも知れない、と。あの問題は、辻潤が開き直ったら、まったく変ったものになったであろう。彼は『ダダ』の思想的立場から、これを寛容したのではない。正面から現実にぶつかることを避けた辻潤は、かえりみて他をいう態度によって真実を語る人間に変ってしまった。
 その後、私は幾回とかく彼に会っている。晩年は物狂いの感があり、人の世のわびしさと悲しさを楽天的な人生観の中で消極的にうけとめながら、書かざる作家として一生を終った。書中、『大森の下宿にて』という写真が挿入されているが、私の寓居はあの家からあまり遠くならないところにあった。
 『ですぺら』は批評すべき著作ではない。私は一行を読んで辻潤を思い、二行に移って辻潤を懐しんでいる。庶民的感情をそのまま一つの観念に還元したものは辻潤である。彼こそインテリの弱さともろさ、卑怯さと強靭さ、淡々として、しかも粘りづよい精神の高さを象徴している唯一人者である。

絶望の底から訴える声
詩人 高橋新吉
 辻潤は一個の純心な魂であった。浅草の蔵前の札差しの家に彼は生まれたが、幕府の瓦解と同時に没落したので、彼は幼時につぶさに辛酸をなめた。彼は詩も作らず、小説でもなく「天才論」や「自我経」その他の訳者として、また随筆家として知られているが、辻潤ほど詩人を愛し、詩人から愛されたものも少い。ポオ、ボオドレエル、ランボウ等を彼は紹介しているのみならず、萩原朔太郎や川路柳虹等の賛美や理解を得ているのである。
 彼の一生は、ルンペン的貧困の連続であったが、一管の尺八とペンを携えてパリに渡り酒杯を手からはなさず俗悪な世間に反抗しつづけた。敗戦の爆撃下に、コスモポリタンとして敗残の身を不動にしたが彼の遺稿が第一巻『浮浪慢語』第ニ巻『ですぺら』第三巻『痴人の独語』の三巻にまとめられて、その第二巻に次いで今度第一巻が刊行された。これはダダイスト辻潤にとってのみならず、汚濁と錯乱にみちた現実に、帰趨を求めて狼狽している精神にとっても、よろこびであると思うのである。
 辻潤の思想の中には、過去の日本人の叡智がふんだんに覗かれ、進歩的な海外の思想を正確に吸収し批判している。アンドレ・ジイドは、傑れたエッセイストとして辻潤を認めたが、日本では未だに彼を性格的破産者の如く軽視する輩がいる。花々しきジャーナリズムの主流と、辻潤が常に戦ったのもこのような風俗と悪に対する反逆であった。絶望の底から彼は何を人々に訴えんとするか。彼に耳傾けるべき時だと私は思うのである。

不思議な冷気
週間読売 沈魚
 昭和十九年の冬に、たった一人でポックリ死んでいった辻潤の名が、十年後の今日ポツポツ人の口の端にのぼるようになったのは、まことに不思議なことである。ということは辻潤なるものの真価が、ようやくわかってきた証拠かもしれない。辻潤が先走ったのか、それとも世の中の空気が追いついたのか、昨今の風潮などからみると、わけもなく彼のハキ出したダダ放言に、多少の予言的色彩がないでもない。無軌道に突っ走ったかにみえる彼の放言、自ちょう(嘲)、他ちょう、ヤユ漫バ(馬)の中にも、一本金のような細かい主張が流れている。
 それはいうまでもなく“自我”の一本道であるが、これによって彼は第三の世界を発見しようとしたのであろう。まことにご念の入った哲人ともいうべきで、だからアンドレ・ジイドも『希世のエッセイスト』と太鼓判を押したのであろう。なるほど彼の世紀批判の目は、角度が少しばかり違っていたようである。
 この集に収められたものは大正七、八年ごろから昭和初頭へかけての彼の随筆であるが、いま読んでみても少しもおかしくないばかりか、何かコースの異った密林へでも入り込むような冷気さえも覚える。やはり一種の奇人であろう。
 彼は日本のダダ教祖をもって任じているが、しかしただのダダではない、江戸ッ子のダダであり、シャクにさわって落首風のベランメエも速発する。ここがお上品の文士センセイから、下卑たものとして葬られていたのであろう。彼は文化と称するバケモノ、文明という科学の申し子に対して背を向けた。スケプチストの彼がパリの下宿で「大菩薩峠」に夢中になったり、ルウヴル見物に失望したり、ニーチェやスチルナーの好きな彼が、それよりも米の飯にあこがれた心理もわかるような気がする。とにかく、好ききらいは別としてよほど変ったエッセイだ。矛盾だらけのようだが、底を流れるものは、生物的ノルスタジー、しかも聖人君子のいうアフォリズムの臭気などいささかもない。

既刊 定価 八百円
第一回配本第二巻 ですぺら
 本書には、パリから新帰朝した頃の大正七、八年から、昭和五年頃までの随評論が集載され、なかでも「ですぺら」(絶望の書)は、真に日本を愛し憤おる彼の絶望のさけびとして、読むものに迫る傑作集である。
《収録内容》 写真四葉。ですぺら ダダの話 らぷそでいや・ぼへみあな ふもれすく 陀々羅断語 巴里の下駄・絶望の書 榛名丸の三等船室より 巴里の十日間 此処が巴里か 日本がいいよ 子供の居ない巴里 帰朝漫談 巴用コンニャク間答 ふらぐまん・でざすとれ その他

十月中旬発売予定
第三回配本第三巻 痴人の獨語
 昭和五年以後より逝去する迄の作品集―親鸞の「歎異抄」に比較さるべきものである。現在の我々人間に教えらるべき点が多いことと思う。人間的な思索に徹した辻潤の本質をあますところなく汲みとることの出来る随想録である――この巻は汁潤の写眞集として写眞を十六頁挿入。
 いづこに慰はんや? 鐙覚した小宇宙 錯覚自我説 あるばとろすの言葉 えふえめらる ぺるめるDROPS ふらぐめんたる ダダの吐息 水鳥流吉の覚え書 年譜等 三十数篇収録

(左下欄外)
この辻潤集は予約制の限定出版ですから
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(近代社 電話荏原(78)一九五八番 振替・東京一四五七二四)
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1954年08月辻潤集月報1_1

1954年08月辻潤集月報1_2

1954年08月辻潤集月報1_3

1954年08月辻潤集月報1_4


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