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辻潤のひびき「野溝七生子 年賦」

辻潤のひびき参考資料>10.野溝七生子 年賦

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野溝七生子年賦

一八九七(明三○)
 一月二日、野溝ナオ、父高四郎、母正尾の次女として姫路に生。
 九人兄妹の七番目。
 父、高四郎は陸軍軍人で、連隊長にまでなった。
 この父親からサディスティックな折檻を受ける。
一九○三(明三六)6歳
 金沢の石川県立女子師範付属小に入学。
一九○九(明四一)12歳
 香川県立丸亀高女に人学。
一九一二(大正元)15歳
 大分県立大分高女に転校。
一九一三(大正二)16歳
 大分高女卒業。
一九一六(大正五)19歳
 京都に出、同志社女学校英文科に学ぶ。
一九二〇(大正九)23歳
 この頃、辻潤と相識る。
 辻潤は、野溝七生子の前では紳士的であったという。
 野溝七生子は面食いのため辻潤には見向きもしなかった。しかし、辻潤のラブ
 レターはずっと保管していた。
一九二一(大正一〇)24歳
 上京。東洋大学に新設の専門学部文化学科(西洋哲学)に入学。
一九二三(大正一二) 26歳
 九月、開東大震災。十月末、「福岡日日新聞」懸賞小説に「山梔」(くちなし)を応募。
一九二四(大正一三)27歳
 三月、東洋大学文化学科を卒業。引さ続き研究生としてドイツ文学を専攻。
 八月、「山梔」が入選。九月より「福岡日日新聞」文芸欄に連載。
一九二五(大正一四)28歳
 「眉輪」を執筆。「映画時代」のシナリオ懸賞に応募。
 菊池寛、久米正雄に第一席に推されるも、皇室に材をとったため受賞を見合わせられる。
一九二六(昭和元)29歳
 この頃、府下荏原郡の鵜ノ木に転居。
 九月、「山梔」春秋社より刊行。二十七日、出版記念会。
 十一月、「近代風景」寄稿メンバーとなる。
一九二七(昭和二)30歳
 義兄の紹介でフランス空軍将校ピエール・E・ドフルノーを識る。
一九二八(昭和三)31歳
 長谷川時雨の「女人芸術」に参加。
一九三○(昭和五)33歳
 「女獣心理」を「都新聞」(「東京新聞」の前身)に応募。
一九三一(昭和六)34歳
 一~三月、「女獣心理」を「都新聞」に連載。
一九三三(昭和八)36歳
 花田清輝と相識る。
一九三九(昭和一四)42歳
 大田区調布嶺町に転居
一九四〇(昭和一五)43歳
 七月、「女獣心理」を八雲書林より刊行。
一九四二(昭和一七)45歳
 紅露独逸語学校初等科修了。
一九四五(昭和二〇)48歳
 鎌田敬止とともに鎌滝に一時疎開。八月、嶺町にて終戦を迎える。
一九四六(昭和二二)49歳
 三月、短篇集「南天屋敷」角川書店より刊行。
一九四七(昭和二二)50歳
 四月、「女獣心理」を風樹書院より刊行。
一九四八(昭和二三)51歳
 「月影」を青磁社上り刊行。
一九五一(昭和二六)54歳
 五月、東洋大学国文学科専任講師に迎えられ、近代文学を講義することになる。
 十月、「女獣心理」角川文庫版刊行。
一九五二(昭和二七)55歳
 九月、東洋大学文学部助教授となる。
一九五四(昭和二九)58歳
 この頃「自由春秋」に未完の長篇「憂愁の市」を連載。
 この頃より新橋第一ホテルを定宿とするようになる。
一九五六(昭和三一)59歳
 四月、東洋大学文学部教授となる。
一九五七(昭和三二)60歳
 「森鴎外とゲーテ」を比較文学会総会にて発表。
 この後数年にわたり鴎外の比較文学的研究がつづく。
一九五九(昭和三三)61歳
 東洋大学アジア・アフリカ文化研究所研究員を兼任。
 比較文学の見地からシルクロードによる東西文化交流の研究に従事。
一九六四(昭和三九)67歳
 東洋大学短大講師を兼任。
一九六七(昭和四二)70歳
 東洋大学文学部教授を定年退職。非常勤講師として文学概論を担当。
一九六九(昭和四四)72歳
 三~四月、ヨーロッパに遊ぶ。
 この頃、南日本短期大学に出講。
一九七〇(昭和四五)73歳
 七~八月、イタリア、ギリシア旅行。
一九七七(昭和五二)80歳
 別冊新評「花田清輝の世界」に「花田・エンデミオン・清輝」執筆。
 十月、「白鳥を追って」をアイルランド文学会で講演。
一九七八(昭和五三)81歳
 「文学城」創刊に同人として参加。
 「文学城の詞」およぴ、小説「在天の鳩子に」を発表。
一九八〇(昭和五五)83歳
 四月、小説集「ヌマ叔母さん」を深夜叢書社より刊行。
一九八一(昭和五六)84歳
 「森鴎外訳ファウストI・II部」を白玉書房より自費で刊行。
一九八二(昭和五七)85歳
 十一月、竹田市名誉市民に推さる。
一九八三(昭和五八)86歳
 四月、新橋第一ホテルから東京郡西多摩郡瑞穂町の仁友病院(老人専門病院)に移る。
 十二月、「野溝七生子作品集」を立風書房より刊行。
一九八七(昭和六三)90歳
 二月一二日、急性心不全のために仁友病院にて永眠。
 戸塚宝珠院に鎌田敬止の骨とともに葬られる。

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『野溝七生子というひと 散けし団欒』(あらけしまどい)
 矢川澄子 晶文社 1990.1.20
 の年賦を一部訂正。

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