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辻潤全集月報3

親記事>『辻潤全集』月報の入力作業と覚え書き
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辻潤全集第2巻
月報3 1982年6月

五月書房

思い出(三)
松尾季子

 寝相といえば一番美しいのはお釈迦様の死を表現した涅槃像でございますね。北枕にして軽く西に向かって右手を枕に、左手は胴にそって自然にのばし、両足はゆっくりのばしておられます。少し西向きなのは心臓が身体の圧迫を受けない様にとの配慮だそうで、これが人間の自然な寝姿だと誰かに教えられたことがございます。北枕のことでお祖母さんは「北枕は身体によい。磁極は南北にあるので、それに従って寝ることだと誰かに聞いた」といって、北枕で寝るのは平気でございました。人間を正面から見たのではわからないことが多いが、後姿や寝姿、歩く姿を見ると本人の持っている因縁がわかることがあると申します。
 昔中国の百丈禅師が偽山へ招ぜられた時、人相を見る人をよんで見てもらわれたそうでございます。その人相は百丈禅師と高弟の臨済禅師を歩かせてみて、「百丈禅師は骨山だから偽山へ行っても多くの弟子は集まらぬ。それより臨済は肉山だから求道者が雲集して大いに伝道が興る」と申したそうでございます。後姿や歩き方で人を相するということは私も関心があったので、この話には感銘を受けました。後姿や歩き方はちょっとごまかしがきかないので本人の持っている因縁が現れるのでございましょう。
 辻さんの後姿は貧しく見えて、まともに見られぬ思いをしたこともありますし、聖者のように貴く見えることもありました。辻さんは自分のことを「カメレオンのように変わるなんでありかんである」といっていましたが、本当に変わって見える人でございました。普通以上にその時々の心の状態が外に出る方でした。
 辻さんは。人間も遠くに離れていても、双方が鋭敏だと――いいかえると機械が上等だと――何でも受信してわかる、ちょうど電波の送受信と同じだ等ともいっていました。私も時々不思議にわかることがあるので。これは単なる精神病的現象かどうかと疑って自分の師事した老師に尋ねました。「それは六通といってなあ……盂蘭盆疏曰一神境通智証神境故亦名如意通云々」と教え頂いてきました。
 初夏の頃、葉書に「落ちついたら知らせる」という便りをしたまま、待っても待っても何の便りもなく不安のうちに秋になりました。以前「俺は時々旅行に出るが必ず帰って来るから待っているように」といわれておりましたので騒がず待っていようと思いました。初秋の頃、夕方事務所に入った瞬間、ふと「お前の処で死のうか、東京で死のうか」と尋ねる声が耳もとにしました。私は即座に「それは東京」と答えました。勿論これは辻さんとの対話でございます。これが死の予告だったのに気の迷いと一途に打ち消しました。
 辻さんは生前沢山の方々の厚意によって生かして頂いたことを忘れてはいませんでした。囗でいわないだけで決して忘恩の徙ではないと信じております。その証拠には「誰それさんにはこんなお世話になった。某さんにあの時はこれこれの御銭別を頂いた」等独り言のように話してきかせました。まるで子供が親に報告するようなふうでございました。
 私は最近になって辻さんの出生について疑問を持ち始めました。会津藩の江戸詰家老田口重義氏とその妾某女との中に産まれたのが彼の母光女でございます。その某女は田口氏と生別か死別か判然しませんが別れて、札差辻四郎三氏と一緒になって、光女は辻四郎三氏の養女となったらしく、世間でいう連れ子しての再縁でございます。成人して光女は誰かの妾であったそうでございますが、後に茂木六次郎氏を養子婿に迎えて結婚したことになっております。光女の話では「潤は戸籍には一年遅れて入籍しましたので実際は一歳多いのです」とのことでした。詳しく尋ねませんでしたから光女もそれ以上話されませんでした。家系にみだれがあると聞いておりましたのや、いろいろ考え合わせると辻さんは六次郎以外の人の子ではないかと疑ったり致しますが、しかしこれは私の失礼な推測かも知れません。辻さんは独りごとに「おふくろは親父と一生喧嘩ばかりしていたんだ、俺はそれが厭で厭でたまらなかった」と述懐しておられました。光女は六次郎氏のことが話題に上ることがあっても「わけのわからぬ人でした。誰が本を欲しいといってもそんなもの買わないでよいといい張ってね、私が買ってやったものです」等。また辻さんは「親父は俺が読めないのにバレーの万国史を読め読めと強いるのだよ、無茶だよ」といったり、「親類で三重県知事をしていた人について行って津で暮したことがある」とか、「原敬の秘書をしていたことがあった、原敬を殺害した某の息子が伊庭孝のところに出入りしていて俺も親しくなった、変なものだなあ」と話しておられました。六次郎氏は光女が話されるほど阿呆でもなかったのだろうと思います。いわゆる性格の不一致に原因があったのだろうと想像致します。それでも辻さんは六次郎氏を思う情も深かったようで「俺がフランスへ行っていた留守に親父の墓くらい建てておけばよいものを、家の者らは一体何をしていたんだろう。それ位の金は生活費以外にあった筈だのにおばあさんもおばあさんだ」と独り言をいって憤慨をしていた時もございました。お父さんのお墓のことが気になるのだな、やっぱり内心では世間並の事を考えておられると思いました。
 聖心女子大の近くに寺があり、その境内に上杉家の墓所がありました。その入口の左側の方をここに墓かおる筈だと探しまわり、「あ、これだ」といって前に立っておられましたので、多分御先祖だろうと思って私も拝みました。その時は教えてもらわないのでどなたのお墓か存じませんでしたが、多分田口重義氏のお墓だったらしいと思います。その寺から坂を降りる途中に「竹仙」というしるこ屋がありました。「ここは有名だよ」と辻さんはいわれました。上品なお店でしたが今もあるでしょうか、これは昭和六年の初夏の話でございます。(つづく)

第一、二、三回配本について
高木護

 ○この全集には解説も書誌的解題もない。どなたかに解説をと考えてみたが、とどのつまりは何もつけないことになった。なかには不親切だと思われる方たちもいらっしゃるかもしれない。“何かいいたい人はぼくの書いたものをすべて読んだ上でいってほしい”ということを辻潤は再々いっている。“辻潤を解説するのはナンセンスだな”と辻まことさんもいわれたことがある。だから何もつけなかったというわけではない。今日になると、辻潤そのものが作品といえるので、つけ方によっては邪魔になりそうに思えたからである。 ○ところで、第一巻には『浮浪漫語』と『ですぺら』の二著を収録した。『浮浪漫語』は辻潤が三十九歳のおりの最初のエッセイ集である。大正十一年六月東京の神田の下出書店刊、菊半截判、五六八頁、定価は二円四十銭。発行部数は千部(実際は八百部か)といわれている。再版されたという人もいるが、再版本を見た人はいないようである。高い本なので売れなかったともいわれている。現在では、昭和四年刊の『どうすればいいのか?』に次いで珍本となっている。『ですぺら』は辻潤が四十一歳のおりの二冊目のエッセイ集である。大正十三年七月、東京の日暮里の新作社刊、発売は文行社。四六判、二八七頁、定価は一円八十銭。発行部数は不明だが夜店に二十銭くらいで出ていたというからあまり売れなかったのだろう。 ○第五巻はロンブロオゾオの『天才論』の訳。岩野泡鳴、生田長江などの紹介で、いくつかの出版社を経て、大正三年十二月、辻潤が三十一歳のおりに処女訳本として東京の神田の植竹書院から植竹文庫の第二篇として刊行された。小四六判、二四三頁、定価は九十五銭。反響をよびたちまち版を重ねた。つづいて同五年十一月に三陽堂書店版、同九年十二月に三星社出版部版、同十五年十二月に春秋社版が出て、計の二十刷以上を重ねたといわれている。昭和五年十月、改造文庫の一冊に加えられた。 ○この第二巻には、『どうすればいいのか?』と『絶望の書』の二著を収録した。『どうすればいいのか?』は、昭和四年四月、東京の芝の浜松町の昭文堂文芸部から、烏有叢書の第一篇として刊。四六大判、一四九頁、定価は五十銭。発行部数は五百部。初版は一日発行、十目発行の四版を見たことがあるが、一説によれば初版本なしといわれている。
『絶望の書』は昭和五年十一月、東京駅東口角の万里閣書房刊。四六判、四五八頁、定価は一円八十銭。発行部数は不明(千部という人も、千五百部だったという人もいる)。ときに辻潤は四十七歳、酒なしではいられないころであった。その本の“百人の浜口雄幸(時の首相)を失うとも、一人の辻潤を失うべからず”という広告文が物議をかもし、版元の万里閣書房は、政治ゴロに殴り込みをかけたという裹ばなしがある。その上に版元は罰金刑も科されたという。――――――――――――――――――――――――――――――――――
 次回は、創造的自我(虚無)の実践者としての辻潤を決定的に運命づけ、わが国の近代の精神史にも大きな影響を及ぼしたスチルネルの『自我経』(唯一者とその所有)をお届けします。

第四回配本は六月末日
第六巻 翻訳二 自我経〈唯一者とその所有〉
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