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巌頭之感

巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

うん。名文だよね。
ユウユウタルカナテンジョウ、リョウリョウタルカナココン。
その感想は一言に尽きる。曰く「シット!」(嫉妬)

しかし気になるのが漢字の読み方。巌頭(ガントウ)之感と読むらしい。

ちょっと待て。

華厳(ケゴン)の傍ら、巌頭(ゴントウ)でしょ。お前ら巌流島か何かと勘違いしていないか。決闘じゃないからな。身投げだからな。ガントウとか言っている人、燕返しで斬られてしまえばいいのに。

さて本題。
辻潤の記述に現れる藤村操を見てみる。

■オリオン出版社『辻潤著作集1 絶望の書』72頁 絶望の書>幻燈屋のふみちゃん
……貴方の御手紙まだ拝見いたしませんが一青年が華厳の滝へ投身せしことが書いてありましたね私も一昨日でしたか読みました実に暗涙に咽びました前途有望の青年の「不可解」の結果実に悲惨なる最後を遂げたと……其時私は実に残念に思いました若しあなたのような信仰をもっている方が御友達ででもあったら或は無事だったのかも知れないと思います母御弟妹の御落胆は如何ばかりぞ心中御察し申して気の毒なり

ふみちゃんから辻に宛てた手紙。この後に辻の日記「夜は図書館(上野)にてショウペンハウエルを読み申し候」とある。

■五月書房『辻潤選集』490頁 癡人の獨語>ひぐりでいや・ぴくりでいや>天狗だより1
私がひとり旅に出た年には例の華厳に投じて今なお厭世自殺のかみさま? のように思われているパイオニアの藤村操の現われた年である。私の旅立は、たしかに彼の死から受けた強い衝撃がその原因の一ツになっていたことを私は認めないわけにはゆかないのである。(現在三原山が自殺者のメッカになっているのはまことに不思議でもなんでもない――華厳が浅間山に、浅間が三原山に席を譲ったというまでで、時代の不安が青春男女に与える影響はますます深化していくばかりである。自分も当時、たしかに華厳の滝の患者になっていたに相違ない。しかし幸い私はキリスト教を信じていたので、あやうくそれを免れていたのかも知れなかった)

ふみちゃんは「実に残念に」「或は無事だったのかも」「母御弟妹の御落胆は如何ばかりぞ」と外側視点の他人事であり、辻は「彼の死から受けた強い衝撃」「華厳の滝の患者」と内側視点の内在。強く共振共鳴している。
辻潤1884年生まれ、藤村操1886年生まれ、ふみちゃんも含め同世代。各人各様の視点が興味深い。

滑稽新聞の記述に現れる藤村操を見てみる。

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■ゆまに書房『宮武外骨此中にあり 第7巻』(滑稽新聞完全版Ⅱ』392頁
『滑稽新聞 第52号』(明治36年7月5日発行)>近事雑報「東京通信」(抜粋)
自殺學生藤村操に關して、一話有之候、彼が死亡の前、第一高等學校附近の地に、一の墓標を立てゝ日々香華を供する者あり其墓標に菊松女之墓と有之、其空の墓なるは云ふ迄も無く候、且菊松の二字怪しく、これを現文部大臣菊池大麓氏の娘松子と解し、その女の近頃嫁入りたるより、失戀の結果華嚴の瀧に投じたるならんと、聯想し候もの有之候、或はさる祕密有之かも知れ不申候、先は右御報迄早々
  六月廿八日    東京 伊藤八段生
(記者曰)藤村操なる靑二才が哲學者の假面を被り利いた風な書置を巖頭に殘して華嚴の瀑布に投身したことに就ては當時ユスリ屋の大關黑岩周六をはじめガラクタ文士共が喧ましく騷ぎ立てたに拘はらず邪推深い滑稽記者は屹度何か裏面に深い事情があるであらうと思ふて居たが、其後「二六新報」が藤村生前の投書を燒棄てたと言ふこと、「中央公論」に「不可解以外大なる事情があることは聞いて居る云々」の記載があつたこと等を見るに至ッて益々其怪しみを深めた、處が果たして前揭東京通信には菊松女云々の風說あることを傳へて居る、記者は此風說を以て決して風說とは信じない、これが全くの事實であらうと思ふ
■ゆまに書房『宮武外骨此中にあり 第7巻』(滑稽新聞完全版Ⅱ』406頁
『滑稽新聞 第53号』(明治36年7月20日発行)
●失恋奴藤村操
東京の第一高等學校生徒の藤村操(十八歲)と云ふ者が、去五月二十日頃自殺を思ひ立ちて、態々大ナイフや筆墨硯などを携帶して野州日光に行き、華嚴の瀧の岸にある神樹を削つて
 巖頭之感 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす、ホレーショの哲學、竟に何等のオーソリチーを價ひするものぞ、萬有の眞相は唯だ一言にして悉す曰く「不可解」我この恨を懷いて煩悶終に死を決するに至る既に巖頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし、始めて知る大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを
と云ふ利いた風の書置をして投身した事に就ては本誌前號に記してある通り
 當時ユスリ屋の大關黑岩周六をはじめガラクタ文士共が喧ましく騷ぎ立てたに拘はらず邪推深い滑稽記者は屹度何か裏面に深い事情があるであらうと思うて居たが、其後「二六新報」が藤村生前の投書を燒棄てたと言ふこと、「中央公論」に「不可解以外大なる事情があることは聞いて居る云々」の記載があつたこと等を見るに至ッて益々其怪しみを深めた、處が果たして前揭東京通信には菊松女云々の風說あることを傳へて居る、記者は此風說を以て決して風說とは信じない、これが全くの事實であらうと思ふ
此想像は果たして的中した、其の後發行の東京新聞に左の記事が見へた
○去る五月中の事なりき高等學校寄宿舍の裏手に打球のグラオンドを造らんと其處ら繩張りなどせし折しも二尺ばかりの小高き土の上に怪のものこそ見たれ、卒塔婆に擬らへたる白木の杭の墨生々しく四月十日佛菊松女と書かれたる其の前に白木の三方に紙打敷きて赤飯を盛りたるが供ゑられ傍らに今利の禦神酒德利一輪の夏菊昨夜の雨に濡れたるさへ怪し、此は何者の仕業にやと甲傳へ乙聞きて交る交るに走せ參じては流石に猛き荒くれ漢も肝を拔かるゝ許りなりしが(中略)平素記憶力强きを以て名高き靑年あり、思ひ當る節ありけん礑と膝を打て寮室に馳せさり其手に一枚の新聞紙を手にし來りたり、此を見よ四月十日の新聞なり菊池某の息女松子孃は今日を以て何の某氏と結婚の式を擧ぐとあり、されば我が同窻の友の中に何人か彼女と多少の關係を有するものなからずやはと言終るを待たず然り々々愛するもの不幸にして他の領する所となる之れ卽ち目して佛となす所以なるかと應ふるもあり、抑も如何なる大詩人がダンテを學べるやと高等學校內は朝となく夜となく此の話にて持切り居たりしが、其日より幾もなくして藤村操華嚴に投ずとの事諸新聞に出でたるより扨てこそ扨てこそとは彼の探偵小說家のみならざりしが例の記憶家も亦た言へり然り餘は嘗て彼のノウトブツクに菊松々々の字を以て亂書されたるを瞥見せし事ありと(讀賣新聞)
○少年自殺者藤村操の死に就ては御大相な理窟を捏ね廻す先生方もあるけれど二十歲にもならぬ一少年が高遠なる哲學觀に打たれて眞面目に死を決するが如きは有るべからざるとで何か別に祕密の存するものあらんとは人々の疑を挾む所であつたが茲に彼が自殺の眞因とも認むべき事實を聞き得た、それは外でもない世の少年に有り勝ちなる失戀の結果である、彼をして心にもなき巖頭の感を記さしめしも、將たまた華嚴の深潭に身を投ぜしめたるも全くこれがためである、彼を殺したる罪深き意中の少女とは抑も何人であるか、その少女こそは彼が豫てより相識れる菊池文相の令孃松子(十八)で藤村は那珂博士との關係よりして妖艷花の如き松子と相識りてから我と終生を契るべきは此天津乙女を措いて他にあるべからずと心の駒の狂ひそめては若き血汐の燃ゆる許りに慕ひて止まず、左りとて初戀のそれぞとも明白にはいひ得ず亂るゝ心を押へ居たるに人生兎角躓跌多く松子は過般法科大學敎授美濃部達吉の妻と事きまつたので藤村は宛然掌中の珠を奪はれし心地して落膽失望言語に絕し果は平生よりして多少噛り居たる厭世哲學に誤られ投瀑の悲劇を演ずるに至つたものだそうだ(中央新聞)
哲學者だの無痛無根の死だのと襃めチギッて居たガラクタ蚊士共は、今此新聞記事を讀んで如何なる氣がするか、土頭へガントの感でも起こるかドーヂや、糞たわけメ

滑稽新聞で興味深いのはルビを振っている点。

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一言(げん)にして(つく)悉す、曰(いは)く、「不可解」(かいすべからず)

日本語の「不可解」(ふかかい)でいいと思うんだけどね。
漢文の素養があるとこの方がしっくり来るのか。

そしてやりやがったよ。お得意のパロディを。

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巖頭之感
嬋々たる哉阿孃、娟々たる哉松子、
墮落の書生を以て此女をはからむとす。
ホレターの色學竟に何等のオイヨロチィーを得るものぞ。
野郞の戀想は唯だ一言にして悉す、曰く、「不及戀」。
我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巖頭に立つに及んで、胸中燿衒の外あるなし。
始めて知る、大なる虛名は大なる賣名に一致するを。

【嬋娟(せんけん)】女性の姿があでやかに美しいさま。
【衒耀(げんよう)】名誉名声を得ようとして盛んに自らを誇示すること。
明治人の語彙力半端ねえ。

ちなみに漱石、外骨とも慶応3年生まれの同世代。

同世代でも当事者と操觚者で全く違う視点となるのが興味深い。

お前はどう思うのかって? 絶対「ゴントウ」だって!

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