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辻潤全集月報5

親記事>『辻潤全集』月報の入力作業と覚え書き
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辻潤全集第3巻
月報5 1982年8月

五月書房

思い出(五)
松尾季子

 彼は晩年私に「自分は自己愚弄の天才だ」といっておりましたが、人間の苦しみの深さを自分の心身でためしてみた人でございました。それを音譜でなく文章で表現したのが彼の特異な文学であろうと思います。彼の文章を私が一番初めに読んだのは女学校の一年生頃で十三歳位だったと思います。大震災の後に書いた野枝さんの追悼文ともいうべき「ふもれすく」でございました。本屋の立ち読みで婦人公論で読みました。全く今まで読んだことのない不思議な文章で、一読して私は茫然自失してしまいました。今読むと何の変哲もない文章なのに、どうしてあんなに心を動かされたのか不思議でなりません。あの時読んでいなかったら今日の私はなく、もっと違った存在になっていただろうと思います。全く因縁事という以外言葉がございません。
 彼は何かに「自分のテンペラメントは宗教的であり、芸術的な面では音楽である。自分は音楽を文章で表現しようと試みたのだ」というふうなことをいっていました。私は「ふもれすく」で彼の人生観のユニークさ、そして文章の裏にすばらしい音楽が流れているのを感じました。作家の意図を若い純真な魂は適確に捉えていたわけでございましょう。彼は何か原稿を書きあげると私を呼んでちょっとそこにと前に坐らせ、原稿を声を出して抑揚をつけて読んで聴かせました。私は黙って聴くだけでございました。彼はこうして何かを教えようとしていたものと思いますが、私はその意図をその時分ははっきり理解できずにいました。
 勤めから夕方帰宅して座敷に入ったら見慣れぬ掛軸がかかっていました。その表装の縁が濃い桃色なので異様な感じを受けました。字は圓蛇蛇真了々と書いてあるようでした。初めて見る語句でその意味は何だかよく私にはわかりかねましたが、多分蛇の誠実を誉めた言葉ではないのかしらと思ったけれど改めて尋ねもしませんでした。以前二枚書いて一枚は伊勢の今井俊三氏へ差し上げたとのことでした。書のことは何も存じませんので申すべきではないと思いますが、素人の目にも大変美しい感じでした。墨痕琳離という感じで筆勢に力がありすばらしいと思ったんですが、これも何時の間にか消えてしまっていました。酒代になったかどなたにか差し上げたか何れそんなことだと思います。
 掛軸の話が出ましたから思い出しましたが、中延の家の床には奈良の法隆寺の管長佐伯老師の書「天真仏」という字の掛軸がかけてありました。辻さんがその前に立ってじいっと長いこと眺めておられるのを見たことがありました。こんな時あの方の心にも姿にも微塵の乱れもなく貴く見えました。私は「天真仏」という語をその時見たきりで他で見たことがありませんが意味有りげな語でございますね。
 達磨の絵をかけておられたこともあります。これは石摺りでしたが、普通の達磨の絵とは全然感じの違うものですばらしいと思いました。
 北原白秋氏が辻さんに贈呈して下さった歌の「しんじつひとりはたえがたしまことあるものなほさびしひととうまれしなはかなしけれ」を表装して掛けておられたことがありました。東館にいた頃までは大切にしておられましたが、これも所詮なくしたことだろうと思います。東館で私が病みつく前頃に彼は独り言をいって、「ほんとうにあさましいことだ、俺はこれをさえ売ろうとしたことかあったよ」と自分で自分を嘆くように話したこともありました。但しこれには辻潤兄に贈るという頭書がありました。戦災で燃えていなければどなたか保存していて下さるかもしれません。

 昭和十年夏、辻さんに連れられて訪ねた佐藤朝山氏の馬込郊外のお住居の座敷の床には古い大きい蓮池の水墨画の掛軸が掛けてございました。夕方朝山氏宅を辞去して帰り途で「あそこに掛けてあった掛軸は俺のものだが預けているんだ」といっておられました。それが真実なら多分お金を借りてその抵当に預けておられるのかも知れないと私は思いました。郊外の田舎道を二人でゆっくり歩きながら帰っておりました時、向こうから二人連れの男が近づいて参りました。一人は相当酔っているらしく道一杯にひろがって歩いておりました。丁度すれ違いざまその男は両手を高く拡げて揚げ「ワアッ……」と叫んで私と辻さんの間に飛び込むように襲って来ました。相手の連れと私達が吃驚しただけで、何事もなく行きちがいましたがその後で辻さんは「嫉妬、やいてやがる」と独りごとをいって笑っておられました。嫉妬をやくにはあまりに不景気げな二人連れですのに、犬も歩けば何とやらで可笑しいこともあるものだと思って私も笑いました。今考えますと不景気げに真面目くさって歩いていたから嫉妬ではなく、気の毒に思って喝を入れてくれたつもりかも知れません。
「俺は何でも一度自分のものにすると手離したくない悪い癖があっていけないと思う」と近所へちょっと出かけて二人で帰りながらふと述懐しておられました。それは私も同様でして一並以上に執着心が強いのねと思いました。執着心を起こして自分で自身の心を苦しめることがどんなに自分を傷つけることかと、自分の来し方を振りかえって反省しておられる様子でございました。「身を思ふ身をば心ぞ苦しむるあるにまかせてあるぞあるべき」という廓庵和尚十牛図の訓のようにはいうべくしてなかなか到達出来るものではございませんでしょう。
 第一回の後援会の折りは幸田露伴氏、谷崎潤一郎氏、近衛秀磨氏はじめ文壇、画壇、音楽家、映画関係の方々から見舞金や絵や染筆して下さった短冊、色紙等沢山頂戴された様子でございました。それを売って一時の家族の生活費にあてられた様子でしたが、その時辻さんは入院中でその使途については殆ど本人は御存知ない様子でした。多分津田さん夫婦とお祖母さんが処分されたのだろうと思います。

 蛇という語が辻さんの文章の中によく出ますがこれにはわけがあります。俺が子供時代父親(六次郎氏)に連れられて散歩していたら掘割の池があって、そこに落ちた蛇が上へ上がろうと一生懸命あせっていても上がれないでいるのを見て、父親がステッキの柄にひっかけて上げてやったことがあったんだ、そうしたら嬉しそうに去って行ったよ。父親のしたことでそれが唯一つの俺が感心したことだ。それから俺が何か困る時には蛇があらわれるんだ。例えばまっ暗い夜路を歩く時など前を蛇の姿をしたものが案内するように行くので、それについてさえ行けば下水溝に落ちたり物に引っかかって怪我などしないんだと話しておられました。この話も私は半信半疑で聴いておりました。ある時私は「蛇は嫌だわねえ」と暗に同意してもらおうと思って話しかけましたら、案外に彼は「俺は嫌いじゃあないさ、神秘的じゃないか」との答えでございました。「野溝七生子の生家の庭には白蛇がいるそうだよ」とも話されました。「だから野溝様のことを白蛇姫っていうんですか」と訊ねたかったけれど、当時昭和六年初夏私はまだそこまでつっこんで訊ねるほど心やすくはありませんでした。この方は同志社国文科出身で毎日か何かの新聞小説に当選されたこともあったそうでございます。彼女のラブレターを大事げに辻さんは保存しておられました。一、二通私も拝見しましたが才気煥発の方のように感じました。文学上の自信も矜持も十二分に持っていられる方だろうと想像いたしております。彼女から貰ったという短剣を大切に保存しておられましたのを昭和十年末東館で見たことがありました。辻さんは古い木箱――多分挟箱だったように思います――の物人れを数個と柳行李を持っていて、その中には芥みたいな本や様様の方の手紙や写真や札差時代の辻家の古文書や沢山のお位牌等を大事げに保存していられましたが、あれが辻さんの全財産だったろうと思います。塩原で散々な目に逢って帰京し数日は辻さんの友人知人を尋ねて泊めて頂きました。やっと友人のお世話で馬込の東館という下宿屋の二階の四畳半を借りて落ち着きました。一間の押込みのある西北隅の部屋でした。この部屋に彼の芥財産を足の踏み場もないように広げ、西の一隅に机代用の小さい飯台を置き、反対の一隅で私は炊事をしていました。そのうち私は風邪にかかり寝込みました。衰弱がひどく呼吸困難になり自分でも死を予感しましたので、ここで死んでは皆様に御迷惑をかけるからと思って、専修大学の英語の先生で時々遊びに見えていた明石譲寿氏にお願いして両親への手紙を代筆して頂きました。辻さんは私か帰ろうとしているのを聞かれたのか「帰るなよ」等といっていました。私は黙って返事も致しませんでした。この前後彼は毎日大抵出かけて夜遅く酔って帰りました。ある晩明石氏が部屋まで送り届けて下さったけど大声で喋るので、「静かにして下さいよ、階下で大家さんが寝ておられるので怒られますよ」といって明石様と一緒に叱ったのです。辻さんは「何? なんだって! 階下で大家がおまんこしているから静かにせろって!」と耳を澄ます格好をして見せるのが真にせまっていて、ぼんやり明るい裸電球の下に辻さんと向かい合って抱き合うようにつっ立っている明石さんは、処置なしという顔で懸命に笑いをこらえておられました。その二人を眺めると前後も病苦も忘れて私も笑わずにいられませんでした。昭和十年の歳末でしたが父と兄が迎えに来てくれて、明石様はじめ皆様の御親切で高輪病院に入院させて頂きました。病院の玄関で二人の看護婦さんに両脇から抱かれるようにして三階の病室のべッドまで辿り着いたまでは覚えておりますが、安心したせいかそれから二週間位は昏睡状態に陥って意識不明でございました。この時私は妊娠六ヶ月でした。
 一方辻さんも私が東館を出てからしばらくの間は元気だったらしいけれど、急性肺炎になり危篤になられたそうでございます。今考えますとどうもあの芥財産は辻さんにとっては貴重な資料だったのでしょうが、実は様々の黴菌の巣窟だったのではないかと考えます。それを太陽もささない陰湿な部屋にひろげて一緒に寝ているんですから、病気にならないのが不思議でございます。辻さんとしてはやっと少し落ち着いて仕事をしようと思って広げたらしいのです。塩原の霞上館の御内儀に「ここで心中して貰っては困るから出て行って欲しい」と断られたのですが、多分二人共その頃からすでに死の影がさしていたのかも知れません。もちろん私達は心中しようなどと考えてはおりませんでしたけれど。


 当時よく出入りしておられた矢橋丈吉氏のお宅へ、何の用時で訪ねたのか忘れましたけれどお邪魔して帰りがけに、矢橋氏も俺もちょっと用事があるから一緒に行こうといわれて御一緒したことがありました。人の顔がはっきり見えない位夕闇に包まれた夏の宵を二人で歩きながらぽつぽつ話しました。何の話のついでか忘れましたが、「辻さんは女たらしだからなぁ、松尾さんは誑かされているんじゃないかなぁ。辻さんは女を一つの道具にしか思っていない人だから、あの歳で若い女に子供を作るなんてどんな気持ちでいるんだろうなぁ」と矢槁氏は呟いておられました。
 後で辻さんに「矢橋さんが辻さんは女たらしだから、松尾さんも誑かされていると話しておられましたよ」と私が話しましたら、「なに、俺がお前を誑かしているって……お前に俺が誑かされているんだ」と辻さんはいい返しました。何だか妙な話で、私もちょっと考えて見ましたけれど、私自身魅力がおる筈もないし、男を誑かす程色気も技巧も知らないし、美人でもなし、酒も飲まないのでその相伴もしませんし、どこらあたりで誑かすことが出来ましょう。こんなこといい合ってみても阿呆らしいと思って私は話を止めてしまいました。男が女たらしでも、女が男たらしでも、互いに相手にならなければよいことだし、その責任は五分五分ではないかと思いました。
 ある日新聞記者あがりで、大岡山に喫茶店を経営しておられた熊本県出身の某氏が遊びに来ておられ、辻さんは留守でお祖母さんとその方と私と三人で茶飲み話をしていました。その日の新聞記事のことで、私は気が急くままに「その女が……その男が……強姦されて、殺しちゃったの……」、と話しますと、「松尾さんちょっと待って下さいよ……」と薄笑いして、「女がどんなに強くても男を強姦することは出来ませんよ、アッハハァ…」というわけで二人で大笑いしました。お祖母さんはキョトンとして黙っておられました。
 この方は妻妾同居で生活しておられ、以前からお祖母さんは、「あの妻君は偉い、女は嫉妬やいてはいけない……」等といっておられました。お祖母さんは三味線が上手な名妓風の方でございました。変則な生い立ちであったためか、江戸趣味というのか知りませんが、一種人生観が違うようだなと思いました。辻さんに対してもお祖母様は男女関係のルーズさを男の甲斐性位に考えておられたように見えました。
 しかしながら妹のお恆さんは、「兄さんは若い時はほんとうに真面目な人だったのに……」と話されたことかあり、また本人も「野枝さんと一緒の頃は自分でも信じられぬ位真面目だった」と何かに述懐しておられたのを読んだことがあります。本性はとんでもなく厳格で真面目な点が私にはチラチラ見えました。食事の時急須の受け取り方が粗末だったといって、ひどく叱られすくみ上ったことがありました。「自分はいっても仕方のない程度の者には何もいわないのだ……」と話しておられたこともございましたから、乱れた生活や下品な所作が好きだったわけでも、善いと思っていたのでもなく、仕方がないと諦めておられたのだと思います。
 考えていると「女たらし」という意味が正確には解らないので辞典を引いたら、「たらし込む、すっかりだます、まどわし嘘をいって人を誘うこと」と書いてあります。
 辻さんは女を積極的にだますことはしなかったろうと思います。心を引く位のことはあったろうと思いますが、女の行動は女の自由意志で決めることで、その行く末の幸不幸まで自分は責任は持てないという持論で、一見無責任に見える考えのようでございました。女の人を見ているととにかく生活力旺盛であって自分など及びもつかないと思う、あなたに対しても僕は幸福になどしてやれそうもない、あなたは自分で幸福になるより仕方がないというような手紙を貰ったことがありました。相手が自分みたいな男でもよいと思うなら、女の自由にするがよいし、来てくれるようなら有難いという程度の考え方のようでございました。但し自分は貧乏で近所の自由労働者にも及ばぬ生活をしているということも話されました。
 野枝さんとの破綻から後に、辻さんの女遍歴が始まった様子でございますが、要するに女を心から愛する等ということは馬鹿臭いことだと自分にいいきかせて、女をセックスの道具位に思うことに決めたのかも知れません。それで女から女へということになり、手が早いの、女たらしのといわれることになったのでございましょう。辻さんという人は相手の人格の程度を一目で見ぬく人でしたから、無茶も自分で意識してやっていたことは確かでした。辻さんは冷たい人という方もあります。確かにそんな取りつくしまのない冷たさを見せることも事実でございました。
 相手の方を尊敬出来る人と思ったら、男女にかかわらず、手も足も出さず神妙にしておられたでしょうと思います。例えば谷崎氏前夫人にある種の尊敬を持っておられたことは言葉の端にも窺われました。佐藤氏夫人になられてからも、辻さんは外国の本で欲しいのが見つかると、お千代さんに頼んで買っておいて貰うことにする等と話しておられました。谷崎氏と辻さんの母親の光女は三味線、干代子夫人は琴、辻さんは尺八と合奏した時の思い出話をしておられたこともありました。そのためというわけではなく、何かと尊敬しておられるように感じました。辻さんは上田秋成の雨月物語や泉鏡花の作品を好む傾向かありまして、女性のタイプもどちらかというとそれらの作品に出て来そうな女の方が好きだったようでした。中西悟堂氏の前夫人の話から、「あの人は山陰のお寺の娘さんとかで、神秘的な感じのする人だったがなあ……」と話しておられたこともありました。静かで上品で、神秘的な美人で音楽や文学の素養があって、巨万の持参金がある方、そんな方がみつかったら、辻さんも誑かしたくもなられたでしょうけれど、はてさての話でございます。
「先生は私を不良少女と思っているでしょう?」
「いいや、善良少女と思っている……」
「変な言葉ですね……」
「俺は君を女とは思っておらぬよ……」
「あら、そうですか? だったら犬や猫の仲間かしら?………」
「いいや! 神さまだと思っている……」
「何ですって! 阿呆らしい、また冗談ばかりいって、茶化してしまって……」
というようなお話をしたこともありました。(つづく)

別巻のことなど
高木護

 ○辻潤とはなんですかという問いをしばしば受けます。判りませんとこたえると、ええ? と怪訝そうな顔をされます。スティルナーの影響の、どうのこうのといってみたところで、それは彼のほんの一部分でしかないようです。彼はそれらを彼流に咀嚼してしまい、たとえばスティルナーの影も形もありませんので、その噛み砕きぐあいを眺めているしかないようです。ぼくの書いたものや訳したものを読んで下さい、と彼がいっているように、まずは読んでみることではないでしょうか。○第五回配本は二冊の著作から成っています。一冊は『癡人の独語』、もう一冊は『孑孑以前』です。『孑孑以前』の半分以上は翻訳ですので、訳文は第八巻に収録します。『癡人の独語』は昭和十年八月、書物展望社刊、四六判の三五〇頁です。二通りありまして、特製版は百部限定の定価三円、普通版は六百限定の定価二円です。当時。特製版から売り切れ、普通版は売れ残ったといわれています。『孑孑以前』は同十一年五月、昭森社刊、四六判の三二〇頁の定価一円五十銭です。箱入りの美本です。彼の友人だった萩原朔太郎の「辻潤と低人教」という跋文がついていました。これは彼のなんであるかを知る貴重な一文です。いつでしたか、昭森社主の森谷均さんに電話で発行部数をおたずねしたところ、「千部出すつもりだったけど、本になったのは五百部ではなかったかな」とのこと。 ○辻潤全集は予告どおり全八巻ですが、もう一冊別巻を出すことになりました。内容ですが、何人かの方たちの「辻潤研究」、年譜、写真、書誌などです。もし辻潤の写真や何か資料をお持ちの方は見せて下さいませんか。別巻だからといって堅苦しいものではなく、おもしろいものにしたいです。 ○『癡人の独語』ですが、特製版の百部限定本の裏表紙にラュパアが用いてあり、同一のものは一冊もないとのことです。この昭和十、十一年ごろの彼は東京近辺を転々としています。つまりだれかの家の居候をしたり、尺八を吹いて門付けをしたり、歩いていて突然おかしくなって、警察に保護されたり、監禁されたりしています。過当の飲酒癖や睡眠不足から、錯乱状態になったのではないかと思われますが、何かおらびながら歩いてる彼を見かけたという人もあります。『孑孑以前』はこんな彼を見かねた昭森社主の厚意によってできた本です。そして、なにがしかの印税も支払ったそうです。というよりも、本にして上げたのに、印税をはやく払えと催促されたのだそうです。このころから、彼の考え方、生き方が時代に合わなくなってきたようです。彼の場合は「時代に」ではなく、「時代が」といわなければならないのかもしれません。そこが彼らしいところでしょうが、従って稿料を払ってくれるような雑誌などからの注文も、しだいになくなってきたようです。彼の浮浪くらしが始まるのもこれからです。――――――――――――――――――――――――――――――――――
 次回は阿片に溺れる青年の深層を抉る『阿片溺愛者の告白』、権威を痛罵し旧時代に峻烈な幕切れを宣告したムウアの自伝的作品『一青年の告白』です。

第六回配本は八月末日
第七巻 翻訳三 阿片溺愛者の告白 一青年の告白――――――――――――――――――――――――――――――――――

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