見出し画像

辻潤全集月報8

親記事>『辻潤全集』月報の入力作業と覚え書き
――――――――――――――――――――――――――――――――――
辻潤全集第8巻
月報8 1982年11月

五月書房

思い出(八)
松尾季子

 ずっと前に「俺は自分が行きたい時は一人でさっさと行く、君なんかおいて」と話された事がおりましたが、その言葉通りさようならともいわずに、その気振りも悟られぬように、私が静かに待っているように、落ち付いたら知らせるとの最後の葉書をくれたまま消えたように他界してしまわれました。辻さんは残った私がどんなに悲しむか考えてもみなかったのかと思い、悲しみの果てには腹が立ちました。「お前は俺が死んだら生きてはいないというが真実か、ほんとうなら今キスさせろ」なんて知人の奥さんの前でいって困らされた事がありました。「先生はこの頃無茶苦茶だから。こないだも私の腕に噛み付いたりして、こんなに内出血しているわ」と赤紫色になっている右の上膊を彼の目の前に示したら、瑕がついている間だけでも俺を憶えておけ」なんていう始末でございました。いろいろと困ることや苦しみばかり多かったけれど、正直にいえば彼は私にとっては命だったのでございました。でもよく考えてみますと幾度も夢や幻に出て死の知らせがあったのに私が不注意だった事を気付きます。私は彼の死を素直に受け入れたくなかったので、自分の気の迷いと何時も否定しておりました。それがいけなかったと思います。それに昭和十九年頃になりますと戦況も悪くなり、軍需工場の女子挺身隊の舎監をしておりました私の身辺も、昼夜さまざまの用事があってちょっとでも油断が許されませんでした。例えば電話一本かけ忘れたために多勢の寮生が食事ぬきとなる始末で……新入の挺身隊の八十人分位の食事追加の連絡を忘れた為に私は泣くに泣けない経験をした事もありました。
 そこは常時千五百人位の寮生を収容していて、舎監二人で助手・掃除婦・看護婦・事務・守衛・食堂等を統率する組織になっておりました。いわゆる寮の老婆役できまった仕事は日報を書くだけで、何時もぶらぶらしているように見える役目ですが、家庭と同じで全体の運転に何時も気を配っていなければならない――。その時々の問題に臨機応変の判断を下す役でございますので、心に隙や曇りがあると恐ろしい事になると思っておりました。それで辻さんの事を身の細くなる程心配しておりながら、十分の配慮が行き届かなかったと残念に悲しく思うことは、言葉に表現出来ない位痛切なものでございました。もともとそんな職場を選んだのも辻さんに少しでも助力しようとの下心あっての事でございました。実はお金を貯めて辻さんのために家を作ろうと思っておりました。
 今考えますと古い家を買えばよいのにその知恵のなかった若さ浅はかさが後悔されますが、例え家だけあっても人間は生活して行けるものかどうか、深く考えますとわからなくなります。その事は辻さんにもちょっと手紙を書いた事があり、承知しておられた筈でございますが何を考えておられましたか、返事もなかったのでその心の中は知るすべもありませんでした。地方の女学校へ奉職すればよかったかも知れなかったが、万一辻さんとのことが知られた時うるさい事になるから、工場ならと思ったけれど、どう致しまして軍需工場はなお官憲の干渉がうるさいところでございました。それを他人に知られぬように辻さんと交渉を持つという事は大変なことでございました。誰一人自分の苦衷を打ち明ける人も、頼みにする人もありませんでした。というより誰も信用出来ないと自分で警戒しておりました。人間不信に陥っておりました。当時としては、辻さんはプロレタリヤ文学者で危険思想家と断定されていて、陰に陽に官憲の圧迫がありましたので、戦況が悪くなるにつれて辻さんは追いこめられて行った面もありましたでしょう。この頃はもうお友達も殆どなく、何でも胸襟を開いて語る方もなかったのではないでしょうか。それまではお互いに幾分の遠慮や用心がありましたが、急に私に何でも語りかけるようになりました。敗戦だという意味の事など手紙に書かれるので、私からそんな事はいわないようにと注意した事もありました。官憲の弾圧という理由だけでなく、所詮そういう運命をたどらなければならぬ宿命を持っておられた方だったのだろうと思ったりもいたします。私としても一生懸命助力しようとしても助力出来ない境地に追い込まれていたように思います。後になってああすればよかったこうすればよかったと思ってみてもあとの祭りで、その時はそれだけの知恵しか出て来ないもので、魔がかけているとでも申すのでございましょう。
 私は今まで彼を辻さんと書いて来ました。実を申しますと辻さんの生存中もその没後も一度も彼を辻さんとも、辻潤とも彼ともあの方とも主人・恋人ともいった事かおりませんでした。東京で一緒に暮していた時分は、家族の手前もあるので先生と申しました。かといって下女的存在と自任していた訳でもなく特別何かを教わったわけでもありませんでした。あの方が死去する年だったか、その前年だったか忘れましたが、その頃の手紙に季子さま等と書いて来るので何だか余計疎遠な人になるような気がして「さま」などと書かないで下さい。これから私も先生などといわないで以後「あなた」ということに致します、私には「季子」と呼び捨てにして下さい、初めてお目にかかってからもう十数年も経ちましたのに、あまり他人行儀はお互いに止めましょうと書きましだけれど、そうしようとも何ともその事の返事はありませんでした。尤も以前から辻さん自身は相対の時は「君」とか「お前」とか「おい」とかいって、他人や家族の前では「松尾さん」といっておられました。他人行儀にしていたのはむしろ私の方だったかも知れません。今度これを書くにあたって彼のことを何と呼んだものだろうと迷いました。先生と書くのは読者に対して悪いような気がいたしますし、それかといって辻潤氏とも辻潤とも何だか書けません。何といったものかと思案の末、懇意な方々が「辻さん」と呼んでいられたのを思い出して私もそうする事に致しました。
「雲のかかるは月のため、風の散らすは花のため、雲と風との有りてこそ、月と花との尊けれ」と二絃琴か何か日本の古典音曲の歌がございます。まことにおおらかな歌てその古めかしさの故にこそ頭がさがります。単純で明快な人生訓であって、そういう哲学に徹すれば人生の憂いも悲しみも消えてしまいましょう。辻さんは概して心の底にはそんな風な考えがあったように思います。
 それから地歌の「雪」という曲を好きで辻さんの尺八、お婆さんの三味線で合奏して聞かせて下さった事がありました。慈雲堂病院に入院された年の春頃のことと思います。歌い出しは「花も雪もはらえば清き快哉」で始まり、最后は「吾待つ人も我を待ちけむ」の文句で終わる実に幽玄な曲でございました。後に自分の師匠様に「雪」を教えて下さいと申しましたら、「雪! あれは目出度い曲ではないから……貴女には翁を教えて上げましょう……」といって教えて頂いた事がありました。たった一回聞いただけですけれど印象深い素敵な曲と思いましたのに、何故あんな事いわれるのだろうと疑問に思っておりました。それは難波女郎の失恋を題材にしたものだと後で知りまして、なる程と思いました。
 払えば清き抉と何も彼も捨て果てたようなしたたかな辻さんでも、愛憎喜怒哀楽がなかったわけではなくて、どうかするとよほど心にこたえる事もあるらしく、幼児が外で不如意の事があって、母親の膝に縋りついて泣いていいつけるように、齢五十才の辻さんが、年若く微力な私の膝に顔を埋めて何か訴える事もありました。私はただその語られる話を聴くだけで一言もなく、彼の頭から頸へ、背中から両腕ヘタオルで覆うて、しばらく按摩してあげると眠られました。この全集のパンフレッ卜にあるまこと君が描いた父親のあのデッサンはほんとうに、そんな時の辻さんの表情を生きているようにそっくりに描いであります。あれは死顔の素描でございましょうか、弱々しいが優しく静かな美しい顔でございました。彼が眠ると私はそこらにあるもので枕をしてあげて立ち去りました。
 こんな様子をまこと君は見ていてまねるつもりか知らないが、私か憩うて座っていると時々、「松尾さん、耳の掃除してくれよ」と耳かきを私に渡して、私の膝を枕にごろりと横に長くなることがありました。私はこの薄幸な素直な母の亡い美しい顔をした彼が無条件に可愛いくて、実の弟のように思いました。そんな様子をお祖母さんも辻さんもジッと見ておられることがありましたが、何と思っておられた事でしょう。
 或る時辻さんは表の六畳の机の前に坐っておられましたが、縁側を通りかかった私に一寸按摩してくれないかといわれますので按摩してあげていました。茶の間の火鉢の側に坐って煙草を喫んでおられた筈のお祖母さんが突然襖をさっと開けて、「何だ按摩か、贅沢な、お祖母さんだって按摩して貰いたいわ」と、怒ったようにいってぴしゃりと襖を閉められました。「すぐ参りますから」と私は申しましたがお祖母さんは変なこといわれるなあと思いました。お祖母さんは淋しいのでしょうか、何時でも自分中心でなければいけない方のようだとも思いました。
 まこと君は何時か私に注意してくれた事がありました。「松尾さん、メーバー(秋生君の母親のこと)が来ている時は親翁と仲よくしない方がよいよ」と、「私何時でも仲よくなんかしていないつもりだけれど」「仲良くしているよ」「そう、そんなに仲良く見えるの?」「仲良く見えるな」「そう、気をつけますわ、注意してくれて有難う」というような訳で、何とむずかしい家庭でしょうと思いながらも、出て行く思い切りも出来なかったのは、私の性格の弱さでもあり、変わり身のにぶさ、生まれつきの愚痴さでもあり、因縁事というのでございましょう。家庭というのは単純明快な構成が一番理想的のようでもありますが、いろいろと思うようにはならないもので、核家庭というのも場合によっては困る事もあるものでございますよね。辻さんの家庭のように一応物わかりの良い人達の集まりでも、林芙美子の言葉のように、「人の生命は短くて、苦し吉事のみ多かりき」というのは真実でございました。
 林芙美子の名が出ましたので、辻さんの林芙美子観の一端を思い出しました。当時林芙美子は女辻潤などといわれていました。林芙美子も元来青鞜傘下の方ではないかと思いますが違いますかしら? 「林芙美子! やぶにらみの変な女だよ、『放浪記』で有名になったが、あれは女が書いたものだから、あれだけ世間にもてはやされるんだろう。あれ程度のものを男が書いたって、世間はそう何とも思わないだろうな。お芙美もこの頃いい気になって、俺を腐っても鯛なんていいやかって……フランスなんか行ったって、ぐずぐずしていたら帰れなくなってしまうだろうよ」といっておられました。私はそんなものだろうかと思って黙って聞いておりました。
「近頃宇野千代の書くものが世間にうけるものだから、尾崎は嫉妬やいていやがる」といっておられた事もありました。その当時は多分御夫婦だったようなので作家夫婦でもそんなことがあるんだろうかと思いました。
 昭和十年頃、尾崎氏も瓢吉とかいう主人公の出る小説『人生劇場』を書かれて世間にもてはやされた頃、多分辻さんが貰って来られたものでしょう、その本を部屋に置いてあったので無断拝借で読みました。「尾崎さんもこれで大家になられましたね」とうっかり私は辻さんに申しました。辻さんはハッとして、「君、それを本気でいっているのか、お前は尾崎を大家と思っているのか?」といわれました。よくも考えてみないで私は迂濶な発言をして軽率だったと後悔しました。正直いったらそれほどには思っていなかったのでした。心にもない事をいってはいけない、私の中にはおべっか根性があるみたい、以後気をつけようと思いました。
 何時か読売新聞社に届ける原稿を尾崎氏がちょうど読売へ行くから持って行って下さるということで、尾崎氏宅へ持って行くよう、辻さんに命じられて出かけました。「お前尾崎のところ知っているか」「はい」といって私の行ったところは何処だったでしょう。玄関の表札を見上げたら、「岡田三郎」と書いてありました、「あらっ、しまった」と思いました。実は小田原から大森へ越して来た夜、このお家の前を通り辻さんが「ここは岡田氏の家」と教えました。岡田様というお名前は当時新聞等で見かける方で作家でございました。玄関の外でさて困ったどうしようとしばらく考えた末、仕方がない、こちら様に尾崎氏宅を尋ねようと思いました。奥様が親切に教えて下さって、ちょっとわかりにくい所だからと四、五才の坊ちゃんと女中さんをつけて案内して下さいました。奥さんはその時臨月のようなお腹をしておられましたが、そのお子様ももう四十六、七才になっておいででしょう、作日の事のように思い出します。尾崎氏も玄関まで出て来られて初めてお目にかかりました。上品な美男子でまだお若い方だなあと思いました。それに引きかえ私ときたら美人でもない上に右の顔半面内出血で赤紫色の痣になっておりました。尾崎氏御夫婦はびっくりなさった事でしょう。顔の色というものは妙なものでございますね、少しでも色をつけると面白いことになるのはどうしてでしょうか、帰ってから事の次第を話し「恥かしかったわ、こんな顔して」と申しますと、辻さんは「お岩さんみたいだな」というのでした。当時辻さんは些細なことで私を押し倒し顔を畳に押しつけて呼吸も出来ないようにしたり、殴ったり、腕に咬み付いたりしました。私か妊娠中だったのであの方の心理も変だったのではないかと思います。私が「御免なさい」と詫ると後は何でもなかったのですが……。とにかく身のかわし方の早い人でした。若い時剣道か何か武道を習った事があると話しておられた事がありました。あの頃辻さんは何とか生活を建て直したいというあせりがあったのでしょう。玄宙子さんが「兄さんもやっと金が欲しくなったか……」といっておられたのを耳にしたのもこの頃でしたから……。そんな気持ちを私がちょっとも察していない、気がついていない事がはがゆかったのかも知れません。そういえば以前書いたものを集めて、その年の夏「癡人の独語」を出し、翌昭和十一年には「孑孑以前」を出しておられます。本は出だけれど台所には一銭も入れてくれませんでした。書物展望社へ金を貰いに行ったら占部さんが先廻りして待っていたとかで、何のきっかけでか占部さんが、「辻さんが私を呼んだのはけしがらぬ」とかいったそうで、「それならお前が俺の褌洗いでもしに来るかと怒鳴ってやった。腹がたってなあ」といわれますので「私も占部さんに電車賃さえ上げないし、何のお会釈もしませんので、悪くいわれても仕方ありませんわ」といいました。それも辻さんの勘にさわったらしくお前までそんな事いうのかと思ったような顔をして不機嫌でした。この頃半年間ばかり玉生謙太郎さん夫婦が長女をつれて、借家を追立てられて行くところがないとかで、私共のところへ居候しておられました。まこと君はある日行く先も告げずに荷物を持って出て行ってしまいました。私も出て行きますと申しましたが、辻さんがひどく止められますので結局そのままになりました。その中辻さんもどう思われたのか、二人で何処かへ行こうよといい出されましたけれど、私の懐も淋しくなっていたし、それにちょっと行くあても思い浮かばず私は同意しませんでした。この時いっそ、つながり乞食のまねでもして出て行った方がよかったかも知れません。それからの生活は朝から酒ぴたりで日に日に荒んで行くばかりで、遂には水道電気も停止され借家を追立てられる仕末でした。玉生さん夫婦はどう金策されたのか家を借りて引越されましたが私達は宿なしになりました。この頃の事を思い出すと自分の世渡りの下手さ加減や自信のなさが思い出されて何とも残念で悲しくなります。それでもこの頃時々近所に居住していられた添田唖蝉坊氏が来られて玄関の二畳で静かに話をしておられた事かあり、またその息子さんの知道氏も何か用事で見えることかありましたが、至極鄭重に人間あっかいの態度で接して下さったのは有難いと思いました。

辻潤力ッサース
高木護

 ○この巻は訳文集です。昭和四年十二月に新時代社から出た『螺旋道』と、同十一年五月に出た『孑孑以前』収載の訳文のほかに、各雑誌に訳載されたものを集めました。いずれもおもしろいものばかりです。読み物としても十分たのしめます。ただし、頁数の都合で、およそ二百頁分を別巻にまわしました。初期の訳もほとんど集まっています。ところで、辻潤の翻訳について、そのファンのみならず、彼の訳文を読んだ人たちがいうことですが、彼の訳文はむしろ彼自身の「著作」のようなものだ、と。それはどういうことかといいますと、単なる訳ではなく、彼の思想で噛み砕かれ、さらにフィルターにかけられ、濾過されているというのでしょうか。カッサースの訳にしろ、ヒュネカアの訳にしろ、プレイズ・サンドラアルの訳にしろ、キャベルの訳にしろ、どれを読んでも作者のうしろに立っている辻潤が見えてくるようです。そこで、辻潤カッサース、辻潤ヒュネカア、辻潤サンドラアル、辻潤キャベルといったほうがいいのかもしれません。訳文だというと、なんだだれかの訳ではないかとおろそかにする人もいますが、まずこの辻潤の訳を一篇でも読んでみて下さい。訳文の上に、「作品」という一本の小道ができています。その小道の彼方に何かあるか、それを期待してまっすぐ歩いて行くのもいいでしょうし、道草を食いながらぶらぶら歩いて行くのもいいでしょう。
 ○どこの本屋さんも口にすることは、「本が売れない」ということです。頓にここ三、四年、年ごとに本の売れゆきが悪くなる一方のようです。本の量が多過ぎて食傷気味だから、読むに耐える本がないからだという人たちもいますが、それも売れない原因の一つかもしれません。一読書家であることよりも、おれも書き手だとみんな思い込んでいるからかもしれません。「五月書房」も小さな本屋さんの一軒ですから、売れない波をかぶっていることはいうまでもありません。この「辻潤全集」も、いまのところ売れているとはいえません。しかし、熱心な読者の方々の応援のおかげて、完結までこぎつけることができました。つづいて別巻も出ます。辻潤全集の雑役をやらせてもらいましたので、「辻潤こそ、より人間のサンプルとして読まれるべきだ」と自信を持っていえます。また人間なら、「自分が何者であるか」を知るために、「おのれの発見」のために生きているのだということも、教えてくれるようです。といいましても、寝転んで気楽に読めます。
 ○問い合わせがきていますのでおこたえいたします。地方では手に入りにくいとのこと。最寄りの書店さんで注文していただければ、かならずお手許に届くはずですが、これからは各地の書店さんにもおいてもらうようにするそうです。辻まことさんの父親が辻潤です。まことさんの個性的な才能に注目した若い人たちなら、辻潤の独自性な思考にも惚れていただけるのではないでしょうか。――――――――――――――――――――――――――――――――――
 次回配本は最終巻・別巻をお届け致します。辻潤所縁の方々の思い出をはじめ、貴重な資料写真、辻潤論、書誌解題、年譜および末収録作品を併せて収録します。御期待下さい。

第九回配本は十月末日
別巻 辻潤論・書誌解題・年譜・未収録作品――――――――――――――――――――――――――――――――――

画像1

画像2

画像3

画像4

画像5

画像6

画像7

画像8


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?