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辻潤と螺旋道

親記事>創元社版『萩原朔太郎全集 第七巻』の入力作業と覚え書き
底本:『萩原朔太郎全集 第七巻』創元社、1951(昭和26)年6月
初出:1930年3月『ニヒル』第1巻第2号
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辻潤と螺旋道

 辻潤といふ存在は何だらうか。彼はスチルネルの紹介者でアナアキズムの導入者で、ダダイズムの媒介者で、虚無思想の發明人で、老子の敬虔な學徒であり、その上にも尚蜀山人の茶羅つぽこと、醉ひどれ詩人ヹルレーヌの純情主義と、デクインジイの阿片耽搦とを混ぜ合せた、一個の不思議な人格である。總括して言ふならば、彼は多分に東洋的な風格を帶びて居るところの、一つの典型的なデカダンである。デカダンである故に、彼は阿片食ひの夢に搦れ、ダダイズムに誘惑され、老子の虚無思想の無爲を愛し、スチルネルの自我に執し、蜀山人の逃避を求め、そして尚ヹルレーヌの純情センチメンタリズムとに献身するのだ。
 かうした一つの存在は、すくなくとも我々の日本に於て、最も珍しい奇蹟に屬してゐる。なぜなら我々の社會にあつては過去にも現在にも、總じて眞のデカダンがなかつたからだ。世紀木的思想! デカダン! 我々の文壇と文學者とは、過去に幾度もさうした言葉を繰返した。言語として、我々はこの陳腐を卒業した。だが事實として、どこにそんな思想が有り、どこにそんな人物が實在したらう。そもそもまた日本の文化に、いつ「世紀末」が有つたのだらう。明治以來の新日本は、社會的にも文化的にも、常に一貫して未完成の混沌たる「世紀以前」ではなかつたか。夢にも世紀末のない日本の社會に、どうして世紀末的思想が有り得たらう? 況んやそんな思想を體得した、眞のデカダンが何慮に居たらう? すべて日本の文壇に有つたものは、單なる飜譯の言語であり、空無な非實の概念だつた。
 人格者としての辻潤は、この空無な概念に實をあたへ、飜譯にしかすぎない言語を、日本に實現させた一人である。然り! 彼は人間としてのデカダンである。外國思潮の受賣をして、上着だけの新流行――それはいつでも他の流行に着換へられる――を、走馬燈の文壇で語らうとするやうなニセモノでなく、彼自身が性格する實のものを、彼自身に於て創造してゐる本當の文學者である。だから辻潤の藝術には、新しさもなく古さもない。彼はジャーナリスムを超越して不易である。
 しかもその不易のものは、彼の藝術的創造であるよりは、むしろ彼の人格的存在である。なぜなら辻潤は文壇の人でなく、むしろ自我經の説教者であり、虚無思想の傳導者であり、アナアキズムの導入者であり、そして要するに「生活を以て道を行ふ」宗教者だから。彼はその人格の及ぼす力によつて、幾多の若い弟子と歸依者とを周圍に持つてゐる。彼は世紀末的藝術の薫化を受けた、日本のより沒落した親鸞である。もしくはまた市井の巷路に説教する、一種の新しい心學者である。それ故に辻潤の多くの著述は、ヨハネに於ける基督傳の著述と同じく、彼の藝術の爲の著述でなくして、彼の宗教を布教すべき、一の傳導の爲の著述である。スチルネルも、ワイルドも、デクインジイも、デカッサアも、すべてこの目的から紹介された。詩人的メタフィジヤンとしての辻潤氏は、かうした「傳導の書」を通じて、幾多の若い人々にまで、彼の蠱惑的な邪宗門を布教し、そのユニックな哲學と辨證論とを、生活の中に移血して行く。おそらくこの邪宗門は、青年の血液を毒するだらう。或は却つて世を救ふだらう。自分は事の是非を知らない。とにかくにも此の男は、さうして人生を横行し、傲岸不敵の面構へで、彼の生活を生活しつつ、茶羅つぽこ三昧の捨身になつて、社會を押し通してゐるのである。
 新著『螺旋道』は、同じくこの著者にとつて、一つの傳道の書に外ならない。ごの書の内容する題目は、デカッサア、ハネカア、を始めとして、マラルメ、ポオ、グウルモン等の詩人、さては、バルザック、エマーソン等に及び、廣汎多端の飜譯を集めてゐるが、全體を貫流するデーマは一つしかなく、説数者としての著者の立場が、強く太い線で押し出されてゐる。すべての藝術は何を語るか。ハネカアも、ボオも、マラルメも、グウルモンも藝術の本質に關して言へば、ただ一つの眞理しか語つてゐない。眞理! それは ショーペンハウエルによつて辨證されたる、意志の否定としての藝術である。藝術とは? 藝術とは虚無の肯定である。悲しき怨恨と復讐である。死への艶めかしき媚藥である。美しき花火の幻想である。それから絶望の嘆息であり、あきらめと、靜觀と、執着と、不斷の否定の連禱である。
 「螺旋道」の飜譯者として、著者の哲學が此處にある。單に紹介するのでなく、彼はそれを強調して居る。丁度スチルネルの紹介で、彼自身の自我經を説いた如く、この新しき著書に於ても、彼自身のメタフィヂックを説教してゐる。それ故にこの書を通じて、讀者は辻潤の哲學を知り、彼の宗教を學ぶであらう。集中の短篇螺旋道(ハネカア)は、バクウニンやクロポトキンに共鳴した無政府主義者が、一つのすばらしい大藝術を思ひつく。それは夜天の空に幻燈して、太陽のやうに燃える打ち上げ花火の發明だつた。「革命なんか詰らぬことだ」と、その變節した主義者が言ふ。なぜなら彼の藝術は、革命よりもっと偉大で、ずっと重大な結果を人類の生活にあたへるからだ。發明は公開され、人々は夜天の空に、夢魔のやうな太陽を見た。しかしながら大藝術家は、火藥の煙硝の中に死に、萬物と共に絶滅して螺旋道の中に滅びてしまつた。これが本當のアナアキズムだ! 人々は感嘆し、始めて眞理を知るのである。
 これが本當のアナアキズムだ! おそらくまた、著者の宗教もさうなのだらう。明白にこの書物は、藝術至上主義の福音書である。それは麝香の匂ひで書かれた美の哲學で、阿片の夢で調合される美の形而上學だ。デカダンを愛する者はこの書を讀め。デカダンを惡む者もこの書を讀め。なぜなら愛と憎は兄弟であり、同一の母の胎生にすぎないから。著者はこの譯書の中でイデアして居り、彼の美的生活を生活して居る。

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