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大仏蛍を見にいったら。

「東大寺に蛍が見れるスポットがあるよ」と地元の人から教えてもらった。蛍かぁ、そういえば最近あんまりじっくり見ていないな。幼いころ、近所の田んぼで見たことがあったっけ。そのときの記憶はぼんやりしていて、実際蛍がどんな風に光っていたとか、大きさはどのくらいだったかとか、曖昧な記憶だ。だから東大寺の蛍の話を聞いたときワクワクして、さっそく自転車を走らせて行ってみた。

夜の東大寺はめちゃくちゃ怖かった。
境内は真っ暗。入り口の金剛力士像も、月明かりに照らされてぼんやり浮かび上がって不気味さ満点。怯えながら横切った。「こんなところに蛍がいるのかな..」と不安な気持ちで東大寺の横をぐんぐん進み、裏にある小さな池に到着したら、人がポツポツと歩いていた。
警備員のおじさんが、「今日はね、よく見れるよ〜」と教えてくれて、胸が高まる。池沿いに二月堂の方へ向かって坂を登り、だんだん暗闇に目が慣れてきたころに小さな光が点々と浮かんできた。

蛍の光だった。

水辺のほとりに無数の光。消えたり光ったり、けっこうみんな同じリズムでその小さな存在を示していた。中には主張が強いやつもいて、エイトビートか!ってくらい早いテンポで光る蛍もいたし、ひたすらある蛍を追いかける蛍もいた。フラれてしまったのか、別の蛍に乗り換えたりしていて、動きをじっくり見ていると物語が勝手に頭のなかで広がりなんだか夢中になって見入ってしまった。

横にいた小さな女の子たちが、
「あ!光ってる。いっぴき、にひき....ななひきいる!」
「ううん、じゅうよんひきいるよ!」
と会話していて、私も心の中で一緒に数えてみた。

大人になってから蛍の光をこんなにじっくり見たのは初めてだった。
そもそも蛍は1-2週間ほどしか生きられないんだそう。
短い一生なのに、はるか長く生きる私たち人間をこんなに楽しませてくれるとは...。なんて健気な生き方をしているんだろうと胸が熱くなった。

蛍はなぜ光るのだろう。蛍が光らなかったら、その存在はもっと薄いものだっただろうし、私たちも知らないままで終わっていたかもしれない。それが光ってくれたことで記憶に深く刻まれてきた。その光が集まるとVRやイルミネーションでは決して再現できないほどの幻想的な空間になる。

「光る」こと。もうそれだけで蛍が生きた価値は十分にあるんだよと言ってあげたい。ある人から見れば、「光るだけ」かもしれないけれど、それをこれだけの人がわざわざ見に来る。見て、想いを馳せて。人の心に届く奥深さがあの光にはある。
そう考えると、生きる価値って案外そんなに複雑なことじゃないんじゃないかなぁって。たくさんの色で照らすよりも、ひとつの光に込めること。同じリズムで、同じ光で、大事なのは短い期間でも光り続けること。
蛍の一生と私の一生を照らし合わせてみて、なんだか気持ちが少しだけ軽くなった。

来年も再来年も、蛍の光を見にきたいな。毎年少しずつ私の状況は変わっているかもしれないけれど、蛍が放つ光はきっと変わらないのだから。

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