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「主席、夜が更けました」

歌謡「主席、夜が更けました」は、金日成主席の安寧を願う朝鮮人民の一致した念願をこめて創作された叙情歌謡である。

歌詞では、革命の道を踏み出した初日から、ひたすら祖国と人民のために全てをささげてきた主席が、人民の幸せのために昼夜を分かたず現地指導の道を歩み続けることを謳歌し、主席が深夜のわずかな時間でも安らかに休むことを切願する人民の念願を切々とこめて歌っている。

真実かつ素朴でありながらも深奥な歌詞の思想は、穏やかで柔らかな上、叙情が深く、切々たるメロディーをもって立派に形象化されている。

歌謡は、金日成主席を永遠に高く仰ぎ慕おうとする朝鮮人民の気高い思想・感情をリアルに反映したことによって、時代の代表的な名曲の一つとされている。

作家のユン・ドゥグンさん(金日成勲章受勲者、金正日賞受賞者、人民賞受賞者)は、歌謡の創作動機について次のように語っている。

1974年11月のある日の深夜、首都の街を歩いていた私はふと、中心道路を疾走する乗用車を見かけるようになった。交通安全員に何の車なのかと聞いてみたら、現地指導の途につく主席の乗った車だというのであった。

えっ、こんなに夜が更けているのに……。

私は改めて周囲を見回した。森羅万象が静かに眠っており、住宅の窓の明かりも消えた深夜に現地指導の途についた主席。

われ知らずに私の口からは「幸せの揺らんに人民を寝かせ 今宵も愛の道行く主席 夜露に濡れて またいずこへ」というくだりがおのずと流れ出た。

そのうちにふと、数日前に主席を補佐するある幹部から聞いた話が思い浮かんだ。主席は一日一時もゆっくり休まずに仕事に打ち込んでおられるのだから、そばで主席の健康を守って上げられないのが実にもどかしい、主席、夜が更けました、もうお休みになってください、と申し上げると主席は、私にはまだなすべき仕事が多い、人民を満足に食べさせ、豊かに暮らせるようにできなかったのに、いかに楽に休むことができるだろうかと言ったとの話であった。

まさにこれである。

ふと、私の脳裏に「主席、夜が更けました」という歌謡の題目がひらめいた。私はその足で創作室に駆け付けていって歌詞を完成した。作曲家のリ・ボンリョンが作曲していた過程で、「一日でも一時でも休むことを人民は切に願っています」を第3節の最後に入れようという案が出され、作品の思想がさらに強調されるようになった。

1975年、平壌の人民文化宮殿で行われた新春慶祝公演で女声重唱をもって初めて歌われたこの歌謡は、創作されて間もなく大きな絶賛を受け、バイオリン斉奏、合唱、女声独唱などで形象化され、主席への敬慕の歌謡として、全人民的な頌歌として広く歌われるようになった。

これまで首都平壌では毎年、主席の誕生日4月15日を契機に4月の春親善芸術祭が開かれていたが、世界各国の有名な歌手たちが一番多く舞台に乗せた歌謡の中の一つがこの「主席、夜が更けました」だったということを見ても、歌謡の感化力と生命力をうかがい知ることができるであろう。

ユン・ドゥグンさんは、1970年代は主席の賢明な指導の下にわが国で社会主義建設が力強く繰り広げられていた躍動の時期であった、私は人民の気高い思想・感情をそのまま謳っただけだ、と述べている。

朝鮮人民は今日も、髪が半白になっていた主席の姿を思い描き、生前の主席の言葉を思い返している。

「元来、私の家族は髪が白くなりませんでした。ところが、私だけ髪が白くなりました。私の髪が白くなったのは、どうすれば人民にいい暮らしをさせることができるかという心配のためです。ことに、白米の飯に肉汁を食べ、絹の服を着て瓦ぶきの家に住みたいという人民の長年の宿望を実現するために昼夜心を砕き、あれこれと考えるので髪が白くなるしかありません」

主席は一生涯、人民の幸せのために地球を14回半も回ったも同然の57万8000余キロメートルの遠い道を歩み、2万600余の単位を現地で指導した。

その偉大な道程により、この歌の情緒豊かなメロディーを聞くたびに、人民には慈父の姿が胸熱く迫ってくるのである。

歌謡は今も、朝鮮人民があれほど願っていた幸せの楽園をもたらそうと一生涯をささげた金日成主席への熱い追憶を呼び起こし、こだまとなって山河に響いている。

読者の皆さんがバイオリンやピアノを弾きながらこの歌を一度歌ってみると、その感情がよりよく分かるであろうと思い、楽譜と歌詞を添え付ける。

ネナラ(2024-07-08)                                                                       


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