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今君に伝えたいこと #1

 「じゃあ、今日はこれで失礼します」
 宗田慧人(そうだけいと)は仕事道具をしまって立ち上がり、大通り沿いにあるバー『CANZONE』のマスターである麻琴(まこと)の背に声をかける。壁面に並ぶリキュールのボトルを確認していた麻琴が、振り返りニヤッと笑った。
 「慧人くーん。まだ仕事終わってないんじゃないの?」
 「いやいや、僕そんな立派な腕前じゃないので」
 「いいじゃない、アタシは慧人くんのファンなのよ。サービス良くしてくれなきゃ、契約切るよ?」
 「いや、それだけは本当に勘弁してください」
 思わず真顔になった慧人と目が合った麻琴がけらけらと笑う。そして慧人はしぶしぶといった顔を作りながらその実、子どものようにわくわくした気持ちで、たった今自分が調律したばかりのグランドピアノの椅子に座った。鍵盤に指を置く。思わず笑みがこぼれる。
 「リクエストは?」
 「おまかせで」
 麻琴の好みは熟知している。見栄えも〝聞き栄え〟もする、派手な曲が好きなのだ。出会ってすぐにゲイをカミングアウトしてきた彼は、自分は恋多き乙女なのだとこちらが何も聞かずとも申告してきた。だけど慧人くんみたいなもやしっ子は興味がないから安心して、とも。
 そうだ、乙女の祈りにしよう。安っぽいとも学術的価値が低いともいわれているのは知っている、でも、華やかで優雅でこれだけ多くの人に聞かれ続けていることだけでも十分素晴らしいことだと慧人は思っているし、なによりこの軽やかで華やかな曲調が慧人は好きだった。きっとマコさんも気に入ってくれる。
 そう決めて両方の手を共に1オクターブ分開いた。そして、同時に且つ鮮やかに打ち鳴らす。麻琴の視線を感じる。嬉しい。麻琴は毎回調律後にピアノを好きに弾かせてくれた。慧人にとってこの時間がこの上ないご褒美となっていることを知ってか知らずか、いつもこうして耳を傾けてくれる。その優しさに慧人は心の中で感謝する。誰かの前でピアノを弾くなんて、もう無いと思っていた。


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