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今君に伝えたいこと #4

 『喫茶らるご』との付き合いは長い。まだフリーになる前、楽器屋に勤めていた時に初めてメインで調律をさせてもらったのが、このらるごに置いてあるアップライトピアノだった。二年間の調律学校時代は課題以上の数のピアノを触っては調律を学び、二年間勤めていた楽器屋でも、閉店後に店内のピアノを触らせてもらたり、先輩調律師の出張につかせてもらったりしながら技を磨いてきた。その先輩に、やってみる?と突然言われたのが、このらるごのピアノだった。いいんですか、と遠慮がちな声を出しながらも、喜びと期待で心臓がぐんと高鳴ったことを今でも覚えている。
 新規の顧客だ。まずはこのピアノのことを聞く。前回の調律はいつか、誰がやったのか、どんな人がどのくらいの頻度で弾くか、そして、どんなピアノを、音を、求めているか。小柄で細身、けれど日に焼けた肌に白い口髭が良く映えて健康的な印象の店主が口を開く。前回の調律は半年ほど前、そのときまで世話になった調律師とは開店以前からの付き合いだったが、先日身体を壊して休業状態となってしまったこと。困っていたら常連客がネット検索して教えてくれたのが地元の楽器屋である我々であったこと。このピアノは店主の母親が大切にしていたもので、脱サラしてこのお店を始めるときに母の形見としてここに置いたこと、そして、自分はあまり弾かないが、お客様が自由に弾いてくれるので、子どもでも老人でも弾きやすいようにしてほしいということ、聞く人がリラックスできるような柔らかい音を求めていること。
 「わかりました」
 メモ帳を閉じて、ピアノを触る。外観はところどころに傷があるが、よく磨かれている。立派な、とは形容しがたいが、定期的に調律師の手が入った、持ち主に愛されてきたピアノだと感じる。まずは椅子に座り、両手を鍵盤の上に置き、心の中でよろしくお願いしますとピアノに挨拶をした。いくつか音を鳴らしながら作業を進める。ピアノは、慧人の動作にひとつひとつ応えるように、きちんと整えられていく。古いピアノは癖がついていて頑固なものもあるのだが、このピアノはとても柔軟だ。楽しい。最初は先輩の試すような目線に背中で汗をかいていたが、そんなことも忘れて気付けば夢中で作業をしていた。最終的に、店主に、試し弾きをしてもらう頃には、3時間が経過していた。
 店主がピアノの椅子に腰を掛けて両手を鍵盤に置く。六十代後半くらいだろうか、皴が多いその両手は、細く女性的でもあるなと思った。そして、『ねこふんじゃった』を楽しそうに弾く。
 「うん、いいね」
 「本当ですか!」
 「うん」
 鍵盤を見つめていた店主は振り返り慧人の方に身体を向ける。
 「私は専門的なことはわからないけど、これまでとは音が変わったような気がする。いやな変化じゃない、私はこの音が好きだよ」
 「ありがとうございます!」
 思わず頭を下げて礼を言う慧人の横で、時間がかかってしまいすみませんでした、と先輩が頭を下げる。だいたいアップライトピアノの調律なら二時間、慣れている人ならもっと早く終わる。馴染みの調律師が長いこといたのなら、三時間というのはかなり長時間だったはずだ。慧人は慌てて、お礼のために下げていた頭をさらに深く下げた。
 「いや、若い人の初めの一台になれてこいつも喜んでるんじゃないか?丁寧な仕事をありがとう、また頼むよ」
 思わず目頭が熱くなる。嬉しかった。これ以降ずっとらるごのピアノは慧人が調律を受け持っている。慧人自身も、立地も雰囲気も良いこの店を、ある時は休憩場所に、ある時は時間つぶしに、またある時は帰宅前のリラックスタイムに使うようになった。常連となり、店主と仲良くなり、店のピアノを弾かせてもらっているうちに、店の調律師兼ピアノプレイヤーとして働いてくれないかと誘われた。ちょうど調律師として独り立ちしようかと考えていた矢先のことだった。ここは、調律師として、そしてプレイヤーとして慧人と一番に契約をしてくれた、大切で特別な存在だった。


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