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今君に伝えたいこと #16

 昔のことを思い出しながら『子犬のワルツ』を弾き終えた慧人は、指を休めることなく鍵盤を弾(はじ)き続ける。『ツバメのワルツ』は『子犬のワルツ』とほとんどテンポが同じだから、ワルツのリズムを引き続き鳴らしながら自然と弾き始めた。高いキーのトリルで始めるこの曲は、ともすると少し派手になってしまう。そうならないように、あくまで自然に店内に馴染むように心がけて、優しく円く鍵盤を押した。数あるオリジナル曲の中でもこの曲はかなりの回数弾き込み、聴き込んだ曲だ。だがそれは作った当時の頃の話で、それ以降はあまり弾いてはいなかった。今日弾こうと思ったのは、完全に慧人の思い付きだ。強いて言えば、外の街路樹のハナミズキがきれいだったから。散々この曲を弾かされた、そして一緒に弾いた、蛍のあの透き通った白い肌を思い出したからだった。

 「事件だ」

 クラスメイトで唯一同じ中学から進学してきた秋山に、昨日の放課後に出会った彼女の特徴を伝えて知っているかどうか尋ねたら、心底驚いた顔をされた。
 「おまえが誰かに興味を持つことも、泉井蛍(わくいほたる)を知らないことも、両方とも事件だ」
 ひどい言われようだが仕方がない。実際、慧人は特定の誰かと親しくなることが中学の頃から無かった。正確に言うと、小学校5年生の夏休み明け、今の土地に引っ越してきてからというもの、他人と仲良くすることを慧人は無意識に避けていた。秋山は中二、三の時に同じクラスではあったが、親しかったというわけではない。ただ、友達が多く面倒見もいい彼は、高校でたまたま同じクラスになっただけの孤立気味な慧人のことを何かと気にかけてくれる、気のいいやつなのだった。
 秋山曰く、泉井蛍は慧人と同じく特定の誰かと親しくはしていないが、その独特の雰囲気から同学年だけでなく先輩からも目を引く存在で、2か月後の文化祭の中で開かれる『ミスター&ミスF高グランプリ』の有力候補の一人らしい。そんな目立つ人がなぜ自分なんかに声をかけたのか。その理由は結局分からないままだったが、翌日以降も蛍は思いついたように放課後の音楽室に来ては、慧人のピアノに耳を傾けていた。連日のこともあれば、週に一度のこともあった。ときどき演奏した曲のタイトルを尋ねられることはあってもそれ以外の会話はほとんどないため、連絡先も知らなければ、実は直接名前を聞いたこともなかった。それでも、何も言わずに自分の演奏に耳を傾けてくれる人がいることは、家で一人で弾いているのとは違う暖かさが確かにあって、くすぐったくも居心地がよかった。五月が終わる頃には緊張も恥じらいもなくなり、彼女の前で弾くことはごくごく自然なことになっていた。


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