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今君に伝えたいこと #6

 「今日は何件?」
 「1件だけです。マコさんのところ」
 「麻琴のところか、また何か弾かされたんだろう」
 えぇ、まぁ、と思わず片眉を下げて笑ってしまう。CANZONEは太慈(たいじ)の紹介で仕事をもらうようになった。CANZONEだけではない、フリーになりたての頃は、ほとんどすべての新規顧客が太慈の紹介によるものだった。そういう意味でも慧人は太慈に頭が上がらない。
 「でも、それが楽しみでもありますから」
 事実だった。慧人の自宅にもピアノはある。母が幼い頃に買ってもらい、結婚してお嫁に行っても、そして離婚してもなお、ずっと手放そうとしなかったアップライトピアノ。昔は母が、そして今は慧人が散々弾き込んでいるそのピアノは、高級とか一級品という意味ではないが、慧人にとって間違いなく世界唯一のもので、家にいる間そのピアノと時間を忘れて戯れるのが慧人の最も居心地の良い時間だ。
 それでも、CANZONEにあるのは名ブランドのグランドピアノ(オーナーの思い付きで購入したものらしい)、慧人の家のピアノとは格が違う。しかも今の慧人の定期の顧客でグランドピアノを所有しているところはそもそも限られており、ましてや調律師が顧客先で自分の好きなようにピアノを弾くことなど以ての外なのだ。だから、自分が調律し終えたばかりのグランドピアノを好きなように弾かせてくれるCANZONEの調律もまた、らるごとは違った意味で慧人にとって格別な存在となっているのだった。




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