今君に伝えたいこと #17

 六月。高校生にとっての一大イベントである文化祭が近づいていた。慧人は、二日間の文化祭期間、学校に来るつもりはなかった。自由参加であり、何かの係があるわけでも、一緒にまわる友人との約束があるわけでもなかった。秋山が一緒にまわろうと声をかけてくれたが、彼と彼の友人に一日中気を遣わせるのも躊躇われた。音楽室は当日、有志のバンド披露コーナーの荷物置き場になるらしい。つまり二日間、この校内に慧人の居場所はおそらくないということが分かっていたのだった。慧人はそれを、哀しいとも淋しいとも思わなかった。自分の部屋にだって、母のアップライトピアノがある。学校のピアノが弾けなければ、家で一日中ピアノを弾いていられる。それを思えば自然と心が躍った。
 学校中がだんだんとその日に向けて盛り上がっていくのを肌で感じながらも、慧人は変わらず淡々とした日常を送っていた。そしてそれは蛍も同じようだった。この二ヶ月間、相変わらず言葉を交わすわけではないが、彼女が放課後音楽室に立ち寄る頻度は日に日に高くなっていた。二人とも、どこか浮ついた雰囲気の学校内に馴染めず、まるで安全なシェルターに逃げ込むように、この音楽室の変わらない空気を求めていたのかもしれない。

 「明日と明後日の文化祭は」
 明日は文化祭、という日の放課後、まだまだ陽は高いが、窓から差し込む光は少しずつ柔らかになってきた時間帯。いつも最後の1、2曲というタイミングで声もかけずに先に音楽室を後にする蛍がまだいるうちに、慧人はおもむろに切り出した。
 「僕、来ないから、ここに」
 待ち合わせをしているわけではない。ただ放課後の約1時間を、同じ空間で過ごしているだけの間柄だ。わざわざそんなこと言うこと自体、思い上がりかもしれない。そう思いながらも、もし彼女が僕のピアノを聴くためにここ来たにもかかわらず、僕がいなかったら。少しでも落胆する彼女の姿を想像したら、どうしても言っておかずにはいられなかった。
 「そう」
 素っ気ない蛍の声に、やはり余計なお世話だったかと少しだけ後悔していると
 「いいな、私も来たくない」
 と、心底嫌そうな声と表情で蛍が続けた。思わず慧人は吹き出してしまう。
 「そんなに嫌なら休めばいいのに」
 そう言うと
 「明日はね。でも明後日は絶対に来いって実行委員の子に言われてるの。夕方にあるステージに出なきゃいけないんだって」
 秋山が言っていたことを思い出した。きっと彼女は本当にミスF高にランクインしたのだ。
 「すごいね、おめでとう」
 「なにがよ。ほんとは辞退したの、でもダメなんだって。こっちが望んでもいないのに、何のためのコンテストよ、これじゃただの見世物じゃない」
 彼女は本当に嫌がっているようだった。同じ空間にいても、いつも鍵盤ばかり見つめていた慧人は、改めて蛍を見てみる。初めて会った時ももちろん感じていたが、この容姿では目立つのも無理はなかった。
 「僕も注目されるのは得意じゃないから分からなくもないけど。でも泉井さんに投票した人の気持ちも、分かるよ」
 「入学して二ヶ月でいったい何がわかるの?ただの見た目じゃない。こんなの私の努力でも何でもないのに」
 慧人は彼女から感じる怒りのような、憎しみのような感情に戸惑い、何も言えなくなってしまう。 
 「ごめん、これじゃただの八つ当たりだね。せいぜいマネキン人形ごっこ、頑張ることにするわ」
 そう言って立ち上がると、慧人に一瞥もくれることなく音楽室を去っていった。慧人は、蛍が後ろ手で静かに閉じたその扉を、しばらくの間眺めていた。


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