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今君に伝えたいこと #10

 慧人は幼い頃、いわゆる"幸せな家庭"で育った。勤務医である父、専業主婦の母、年子の兄と3つ下の妹の5人家族。家にはピアノがあり、読書家で勉強好きな兄・恒太と甘えん坊で兄たちのことが大好きな妹・那月がいて、料理とピアノが得意な母がいて、仕事が多忙であまり家にはいないけれど長期休暇には海やキャンプに連れて行ってくれる父がいる。今思えば、これ以上ないほどの幸せがそこにはあった。
 その幸せが日常ではなくなったのは、小学5年生の夏休み明けのことだった。
 雨の日だった。そんなことも気にならないほど、久しぶりにクラスメイトと会える喜びに胸がいっぱいだった。夏休みに行った沖縄のお土産と、宿題の数々をランドセルいっぱいにつめて兄妹で登校する。道すがら、いつものパン屋のおじちゃんに挨拶をして、いつもの交差点で恒太の友人と合流して、いつものペットショップで那月の友人と合流して、いつの間にか恒太たちと慧人、那月とその友人で分かれて話しながら歩くせいで、いつも通り那月たちが少し遅れてしまう。離れてしまった分だけ、いつも通り校門の前で妹たちを待って、一緒に門を通ってそしてそれぞれの教室へ向かう。夏休み前と変わらない、いつも通りの登校だった。
 程度の違いはあれど、一様に日に焼けた顔をしたクラスメイトとの再会、ひどく蒸している体育館での始業式、相変わらず長い校長先生の話、教室に戻って宿題の提出とホームルームを終えて、昼前には2学期の初日が終了した。慧人はこの夏休みの間、オリジナル曲の楽譜を2曲書いてみた。1学期に担任の先生がしてくれた放課後特別授業のおかげで、楽譜の書き方や音楽記号の意味を学ぶことができた。その成果を先生に見てほしくて、A4用紙1枚分の短い曲を2曲分、ズボンのポケットに畳んで入れてある。朝、そこにしまったときから、その紙の感覚がポケット越しに太ももに伝わるたびにそわそわしていた。これを見たら、先生はどんな顔をするだろう。想像しただけで頬が上がる。放課後が待ち遠しかった。



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