今君に伝えたいこと #2

 昔から、ピアノが好きだった。
 赤ん坊の頃、どんなに泣き叫んでいても、母がピアノを弾けば途端に泣き止みそちらをじっと見つめながら聞き入っていたらしい。好きと嫌いには理由はない、と誰かが言っていたけれど、慧人自身なぜこんなにもピアノに惹かれるのか分からなかった。ただとにかくピアノの音が好きで、鍵盤の感触が好きで、ペダルの重さが好きで、ピアノという存在自体を愛していた。
 母に教わりながらいろんな曲を弾けるようになり、自分で思った通りの音を奏でられた瞬間が何にも代えがたい快感で、毎日家にあったアップライトピアノを半ば独り占めしていた。始めは簡単な童謡を、それから母が子供の頃に使っていた練習曲集を。それから、テレビで流れた曲をマネして弾いてみたり、学校で習った歌に勝手に伴奏を作ってみたり、作曲のまねごとをして得意になって家族に聞かせたりしていた。
 ピアノを弾く慧人を、母は一番近くで見つめていてくれた。教えてくれることもあれば、ただ聞いてくれていたこともあった。時にはふたりで連弾もした。厳しいことは一切言わず、ピアノを習わせようともしなかった。おかげで慧人にとってピアノは、一番の遊び道具となった。
 兄妹は一緒に弾くことはほとんどなかったが、年子の兄は恥ずかしそうに、そして3つ下の妹は元気よく、慧人のピアノに合わせて歌ってくれた。特に妹は、お気に入りのアニメの曲を弾いてくれとせがんだり、慧人のピアノの発表会をひとりで企画して家族や近所の人たちを招待しては、兄のピアノをまるで自分のことのように自慢するのだった。
 大学病院勤務の医師である父は忙しくあまり家にはいなかったが、母が録音した慧人のピアノをよく仕事の合間に聴いてくれていて、顔を合わせるたびにそのことを嬉しそうに話してくれた。慧人のピアノがお父さんにとって一番の癒しだよ、と笑って。
 家族だけではない、クラスメイトも、教師も、皆慧人がピアノを好きなことを知っていて、音楽の時間だけではなく、レクリエーションやホームルームの合唱の時間、ピアノを弾く係はいつも慧人だった。
 みんな、慧人のピアノが好きだった。慧人も、家族や友人に囲まれて弾くピアノが大好きだった。運動は得意ではなかったけれど、勉強も嫌いではなかったし、読書や工作も、歌を歌うのも好きだった。でも、ピアノを弾くことはそれらと比べようもないほど、慧人にとって格別でとっておきのものだったのだ。




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