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今君に伝えたいこと #12

 明日先生から貰えるであろう言葉を想像してドキドキしながら、慧人は一人、下駄箱へ向かった。向かった先にはいつもとは違う風景があった。
 「あれ?お母さん?」
 「迎えに来たの、行くよ」
 いつもは家で待っているはずの母が、そこにはいた。迎えに来ることなんて、体調不良で早退するときくらいなのに。それに今日の母は、いつもと少し違う。いつも人前に出るときは身なりを整える母が、今日はメイクをしていなかった。キャンプや川遊びのときに履くゆるいジーンズに、髪も1つにまとめている。表情も声も硬いように、慧人には思えた。戸惑いつつ靴を履き替えて上履きを下駄箱に入れようとしたら、母にそれも持って帰るように言われた。夏休みに持って帰って、自分でピカピカに洗った上履き。今日持ってきたばかりの上履き。
 「なんで?明日も使うのに?」
 「いいから。持って帰りなさい」
 なんだか今日はよくわからないことばかり起こるな。そう思いながらも、有無を言わせない母の口調に、慧人は黙って汚れのない上履きを手に持つのだった。
 外はまだ雨が降っていた。朝よりも強く、昼時だというのに空も暗くなっている。慧人はもらった本を濡らさないようにしっかりと胸に抱き、傘をさして先を歩く母を追った。傘にぶつかる雨の音がすこしうるさい。早く家に帰って、この本で練習したい。歩いて20分かかる通学路は、車なら5分だ。なぜなのかはわからないが、母が迎えに来てくれたことは慧人にとってはラッキーだった。
 いつも母が運転する白い軽ワゴンの助手席に乗る。そして、上履きとランドセルを後部座席に載せようと後ろを振り返ると、そこには大きなバッグや衣装ケースが並んでいた。これでは恒太も那月も乗るスペースがない。 
 「どこか行くの?」
 「お昼、食べに行こう。何が食べたい?」
 「そうじゃなくて、この荷物」
 「今日は特別になんでも好きなもの食べさせてあげる。ハンバーグでもカレーでもラーメンでも、なんでも」
 「兄ちゃんと那月は?」
 「何が食べたい?」
 全く話が噛み合わない。やっぱり様子がおかしい。こんな風に慧人の話を受け付けないなんてことは一度もなかった。
 「…マックのハンバーガー」
 本当は、母が作ったチャーハンが食べたかった。餃子も一緒に。先週、母と兄妹3人で餃子を大量に包んだ。その日のうちには当然食べきれず、残りは冷凍してある。あの餃子と、母の卵チャーハンを、みんなで食べたかった。だが、今の母にそれを言うべきではない、と慧人は思った。なぜなのかは説明しがたいけれど。その代わり、滅多に許可してくれないファストフードを敢えて言ってみた。そんなのはダメよ、家で何か作ってあげる。いつもの調子で、そう言ってくれることを期待して。
 しかし、母は無言で国道に入り、大きな交差点にあるマクドナルドにウィンカーを出した。お昼過ぎのマクドナルドは酷く混雑していて、ドライブスルーも公道まで列を成している。それでも黙ってその列に母は並んだ。雨の中、レインコートを着た女性店員が列を誘導しながら1台1台声をかけてメニューを配っている。母が助手席の窓を開けた。
 「いらっしゃいませー。こちらメニューとなりまーす。こちらが期間限定メニューとなっておりますのでよろしければお試しくださーい」
 明らかに異質の甲高い声と貼り付いた笑顔が、車内にねじ込まれる。慧人はメニューを受け取るとすぐに車窓を閉め、彼女はふっと真顔に戻って後続の車両に向かっていった。
 「何がいいの?」
 「えっと…じゃあこれ」
 期間限定だというチリソースが入ったメニューを指さして答える。辛いのが好きなわけではない、むしろ苦手な方。一番上で目立っていたから思わずそれを指した、それだけだ。
 「わかった」
 いつもだったら、慧人が辛いメニューを選んだら絶対に止めてくれるはずの母が、今日は黙って慧人からメニューを受け取った。列はのろのろ進む。車内はクーラーでキンキンに冷やされたまま。慧人は、膝に置いたピアノ教本を少しだけ強く握りしめた。


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