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今君に伝えたいこと #15

 幸いにして、夏休み2日目からというキリの悪い転入生を、岡野小のみんなは暖かく迎えてくれた。新しい担任の先生が転入初日にチョークで書いたのは、「林慧人」じゃなくて「宗田慧人」という名前だった。なるほど。どうやら、両親は離婚したらしい。でも母には聞くまいと思った。もうあんな母の顔は見たくないから。
 岡野小は、もともと住んでいたところの隣の県の小さな小学校だった。昨日まで通っていた、大きな駅が学区内にある小学校と比べて、子供の数は半分以下の規模だ。周りは山に囲まれ、きれいな川も流れていた。つい、この夏に家族で行ったキャンプを思い出しそうになる。昨日までの生活を思い出しそうになるたびに、慧人は目をぎゅっと瞑り、でたらめな旋律のピアノの音色を頭の中で流した。
 「忘れないでね。林君のピアノは、周りの人や、あなた自身を、きっとずっと救ってくれるはずだから」
 昨日の先生の言葉が胸をよぎった。

 母はあの引っ越しの真相を慧人にきちんと話すことはなかった。それでも、その表情は前までの母に戻っていて、不慣れなはずの仕事を懸命にこなしながら、慧人と二人だけの生活を精一杯生きていた。それに応えるように慧人も、学校が終われば毎日寄り道することなく真っ直ぐ家に帰った。母の帰りはだいたい19時前。それまでに洗濯物を取り込んで畳み、掃除と夕食の準備をするのが慧人のルーティンとなった。母に言われたわけではない。自ら志願し、洗濯物の畳み方や簡単な調理を教えてもらったのだ。1か月も過ぎると一通りのことをスムーズにできるようになった。母の力に、支えになりたい。そう願う慧人にとって、帰宅した母ができたての料理の匂いを思いっきり吸い込みながら顔をほころばせる瞬間が、たまらなく嬉しかった。
 仲の良い友人はできなかった。それでも構わなかった。仲間外れにされるわけではない、ただ学校以外の場所では遊ばないだけ。帰宅して手際よく家事をこなしてから母が帰宅するまでの自由時間は、やはりピアノの前にいた。母も仕事が休みの日には、前のように一緒に連弾をしたりまだ慧人が知らない曲を弾いて見せてくれた。ピアノを置いてある部屋はこれまでとはまるで違う。花柄のカーテンではなく、ベージュの無地のカーテンだし、カーペットではなく畳だ。部屋の広さも、前の家の慧人の部屋よりも小さいかもしれない。それでも、慧人と母、そしてピアノがあるその空間は、互いにとって紛れもなく平穏な、かけがえのないものであった。慧人がピアノを弾く。それを見て、前と変わらず、母が笑う、歌う、共に奏でる。それだけで、慧人の心は満たされていく。
 僕のピアノは、僕と、お母さんを、救う。母を救えれば、それだけでいい。その為だけにピアノを弾こうと、慧人は心に誓った。


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