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今君に伝えたいこと #19

 「僕は泉井さんのこと、よく知らない」
 言いながら腰を下ろし、鍵盤の上に指を置く。慧人は鍵盤に話しかけるように、続ける。
 「でも、泉井さんが僕のピアノを聴いてくれる時間は好きだ。それだけは確かだ。話したこともほとんどないのに、変だって思われるかもしれないけど。こんな風に、誰かの前でピアノを弾くことがまだできるんだってわかって、嬉しいんだ」
 泉井さんはどう思っているのかは知らないけど。彼女に聞こえるか聞こえないか、というくらいのボリュームで最後に付け足す。
 「だから、この一ヶ月半のここでの時間をイメージして、昨日曲を作ってみた。弾き込めてないから、たぶんミスタッチ多いと思うけど、聴いてください。『after school』」
 顔を見る勇気がなくて、結局一度も蛍の様子を窺うこともしないまま、慧人は勝手に演奏を始めた。
 『after school』は、ショパンの『ノクターン』のような、ゆったりとしたテンポの曲だ。しかし、サロン音楽として愛される『ノクターン』の優美で艶やかな雰囲気とは異なり、校舎独特の木の香りや、遠くに響く運動部の掛け声、間延びしたチャイムの音を思い出させるような素朴さを表現できるよう意識して作ったつもりだった。聴いた人が皆安心できるような、この傾き始めた暖かい陽射しのように暖かく心を包み込めるような曲に。
 一昨日、慧人がほとんど初めて会話らしい会話をしたときに感じたこと、それは、蛍は周囲からの目に、怒り、怯えているように見えたということだった。確かに彼女の容姿は目を引くし、それだけで勝手に評価をする人も多いだろう。でも、僕は。君の性格も良く知らないけれど、ただ自分の演奏に耳を傾けてくれている君に、思いのほか助けられているんだということ。等身大の、今の自分と君がいるこの音楽室の雰囲気、それが僕の安らぎとなっていること。この演奏で、どうか君に伝わりますように。そう願いながら、慧人は数分間の演奏を終えた。 


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