今君に伝えたいこと #9
『ツバメのワルツ』を作ったのは、高校1年生の春。入学したばかりの高校で早々に音楽室をチェックした慧人は、そこにグランドピアノがあり、放課後は誰も使っている様子がないことを知るや否や、毎日入り浸ってピアノを弾いていた。
ゴールデンウィークを目前に控え、生徒たちにどことなく浮ついた雰囲気が流れる4月のある日の放課後。定位置であるピアノの椅子に座った慧人は、二限の数学の授業中、窓の向こうの景色を思い出していた。桜が散って、新緑が鮮やかな校庭に、すこんと明るい青空、その中を細い曲線を描くように飛ぶ一匹のツバメ。初夏を先取りしたようなすかっとしたそのシーンが、慧人の脳裏に焼き付いている。
どう表現しようか。爽やかな空気感は右手でトリルを多用して、けれど単調にならないように左手のリズムは少し変化をもたせながら。うん、ワルツがいいかな。テンポは…Vivaceくらい。なんだか『子犬のワルツ』みたいだ。そうだ、タイトルは『ツバメのワルツ』にしよう。
指を鍵盤の上で気ままに遊ばせながらひとしきり思いを巡らせたところで、一度演奏をやめてスマホを操作し録音モードに設定する。録音したデータを聞きながら、何度も聴き直して弾き直して記譜していくためだ。ちょうどゴールデンウイークがある。誰かに会う予定もないし、ちょうどよかった。この休みで楽譜を仕上げてしまおう。作った曲は誰に披露するわけでもないけれど、こうやって感じたことを譜面に起こす作業が、今以上に口に出したり文字に残したりすることが苦手だった慧人にとっては日記のようなもので、自分の想いを残しておくためのひとつの大切な手段でもあった。
いくつかの音の組み合わせを試しながら、しっくりくるフレーズを見つけては繰り返し弾く。だいたいの流れが見えてきて、頭から終わりまでをなんとなく弾き終えたところで録音停止ボタンを押そうとする、その時だった。
「それ、なんていう曲?」
音楽室の出入り口に、一人の女子が立っていることに、慧人は全く気付いていなかった。黒髪が腰の近くまでまっすぐ伸びている。ピアノばかり弾いているせいで全然陽に当たらない慧人よりも白い肌、少しだけつりあがった切れ長な瞳、髪同様黒く輝く黒目に真っ直ぐ見つめられると迫力すら感じる。同じクラスではない…と思うが、あまり社交的ではない慧人には自信がなかった。校章バッヂの色で、同じ一年生だとわかる。
「今弾いてたの、なんていう曲名?」
再度問われる。
「今のは…なんて曲とかはないっていうか…今適当に弾いてみたっていうか…」
「え、あなたが作ったの?」
頬がカッと熱くなるのが分かる。"作曲"なんてかっこいいものではないけれど、誰かにそれを知られるのは当時の慧人にとって無性に恥ずかしいことだった。小学生の頃は曲ができるたびに嬉しくて、家族やクラスメイトに披露していたのに。
「タイトルは無いの?」
恥ずかしくて早くこの場を立ち去りたかったが、彼女に出入り口をふさがれているからそれも叶わない。でも初対面のこの女子は、ピアノを弾く同級生男子をからかうといったわけでもなく、純粋にこの曲のことを知りたいという関心から大真面目に質問してきているように思えた。恥ずかしついでに、もう何を言ってもいいやと開き直るような気持ちになって答える。
「今のは、自分で作った曲。一応『ツバメのワルツ』っていうタイトルにする予定」
「…そっか、そうなんだ」
うつむいて、考え込むような、どこか納得していないような顔を浮かべる。そして、慧人に向かって宣言するように問いかけた。
「また、聴きに来てもいい?」
―――それが、蛍(ほたる)との出会い。
記譜のために残した録音データには、蛍の声まで残っていた。きれいな、鶯みたいに高く通る声。楽譜が出来上がっても、なぜかこのデータだけは消せずに今も残している。
そしてこの曲を弾くたびに、今でも慧人は彼女のことを思い出さずにはいられなかった。
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