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今君に伝えたいこと #3

 「ありがとうございました、失礼します」
 チップ込みだから、と言って毎度定額より少し多い額が入った封筒を無理矢理手渡してくれる麻琴に頭を下げてCANZONEを出る。外は少しだけ傾いた陽が放つ穏やかな光に包まれていた。暗がりのバーに慣れていた目を思わず細め、その陽射しに徐々に慣らすように時間をかけて瞼を開けていく。
 13時に入らせてもらって、調律を終えたのが15時半、そこから少し演奏して雑談して、今16時をまわったところだ。1件3時間かけるのは、一人前の調律師としてはまだまだだ。調律師になって4年、フリーになってからは2年の慧人にとっては及第点なのかもしれないが、本気で調律師として生計を立てることを考えるなら先が思いやられる。
 とはいえ慧人はそう焦ってはいなかった。もっといい音を出したい、クライアントの思い描く音をズバリ再現できるようになりたい、その気持ちはあるが、例えばコンサートチューナーのような調律師にとって花形ともいえる未来予想図を描いたことは一度もなかった。ただピアノに触れていたい、ピアノの音の近くにいたい、それだけ。慧人にとってピアノとは、そういう存在で、だからピアニストでもピアノの先生でもなく、調律師の道を選んだのだ。
 それに、慧人が焦っていないのにはもう一つ理由があった。調律師だけではない、もうひとつの仕事があるから。

 んー、と両腕を上げて大きく伸びをする。そして、調律道具が入ったキャリーケースを掴んで、歩き出した。街路樹の新緑が風に吹かれてさやさやと揺れている。もうすっかり桜は散り、ハナミズキの白い花が風に揺られて咲いていた。駅前の歩道は白とライトグレーのタイルが模様を描くように敷き詰められていて、その明るい雰囲気の中を学校帰りの学生たちやそれぞれベビーカーを押す母親同士、スマホを耳に押し付けながら速足で歩くサラリーマンといった多様な人種が行き交っている。その中で慧人はひとりで歩いている。
 ”ひとり”には慣れている。それを淋しいと感じることもなかった。調律師として目の前のピアノに向き合って仕事を全うすること、そして、ただ自由に思うままにピアノを弾くこと。それさえできれば十分だ。そう思いながら歩いて数分、小さな喫茶店の重い扉をぐっと押し開ける。いつもと変わらない、朗らかなカウベルが慧人を迎えてくれた。
 「いらっしゃ…なぁんだ、慧人か」
 なぁんだ、とはなんだよ、と笑いながら慧人はカウンターの椅子に手をかけた。

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