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今君に伝えたいこと #11

 終礼が済んだ教室は、途端に賑わい出す。皆、久々の再会に、休暇中の思い出や放課後遊ぶ約束、たわいもない話で盛り上がっていた。慧人も、同じように家族で沖縄に行ったというクラスメイトと、エメラルドグリーンの絵の具を溶かしたような、鮮やかな海に感動した話で意気投合していたが、先生が大量の宿題を抱えて教室を出ていこうとするのを視界の端で確認し、話を切り上げて彼女に駆け寄った。
 「先生!」
 ぎくっと先生の身体がこわばるのが慧人には分かった。まるで、慧人に声をかけてほしくなかったというように。
 「…なに?林くん」
 ゆっくり、ゆっくり振り返った先生が言う。
 「今日も放課後、いい?」
 一刻も早く先生に弾いて聴かせたかった。
 「…ごめん、今日はこの後先生たちの会議があるから」
 「えー」
 「ごめんね、ほんとに、ごめんなさい」
 「いやそんなに謝らなくてもいいけどさ…」
 いつも真っ直ぐ人の目を見て話す先生がやけに伏し目がちで少し気になったが、まだ夏休みボケしてるのかな、と慧人は軽く考えていた。
 「そうだ」
 ズボンのポケットから折りたたまれた2枚の紙を取り出す。
 「じゃあ先生、これ自分で弾いてみて。」
 「なにこれ?」
 受け取った紙を開きながら先生が問う。
 「曲。2曲作ってみたんだ、夏休みで。1枚目の方は『ブルーオーシャン』ってタイトルで、沖縄の海を見たときに思い付いた曲なの。で2曲目は、那月と一緒にピアノで遊んでたときにあいつがでたらめに歌う歌に伴奏つけてたらできたんだ。だからタイトルは『ナツキ』」
 聴いてほしい想いが強すぎて思わず慧人は早口になる。普段口数が多い方ではないが、ピアノのことになると饒舌になった。
 「ほんとは僕が弾きたかったけど、会議の後とかに先生自分で弾いてみてよ。それで、変なところとか間違ってるところあったら明日教えて」
 言い終えて先生の顔を見上げて驚いた。…泣いてる?
 「…ありがとう、でも先生受け取れないよ。また今度弾いて聴かせて」
 「え、なんで…」
 「いいから。林君が弾いてくれなきゃ、何が間違いかもわからないじゃない。」
 「そうだけど…」
 「ね、だからまた今度」
 今度は慧人がうつむいてしまう。先生に教わったことをきちんと譜面に取り入れて書いた。長調や短調の違いを意識しながら曲を弾いてみた、演奏記号も試行錯誤して使ってみた。先生に、一番に聴いてほしかった、見てほしかったのに。
 そんな慧人の様子を見て、先生は荷物を置いて教室の隅にある先生用の本棚から1冊の本を持ってきた。
 「林君、これ、あげる」
 それは、いつもの放課後特別授業のときに使っていたピアノの練習本だった。ドレミの読み方から運指の方法、指慣らしの練習曲から難易度を下げたクラシック名曲のアレンジバージョン、様々なピアノの基礎知識と演習がまとまっている本。しかし1学期に使っていた本とは違い、新品のようだ。
 「先生、その林君の楽譜もらうから。今日自分で弾いてみるね。その代わり、林君はこれ使って家でも練習しておくんだよ」
 「もらっていいの?」
 「うん、ほんとは夏休み前にあげればよかったんだけどね、全然気付かなくって先生ダメね、ごめんごめん」
 「ううん、すごく嬉しい」
 「先生も嬉しいよ、まさか林君がこんなにお休み中頑張ってくれてるなんて思ってなかったから。すごく楽しみ。早く弾きたい」
 そう言ってから真っ直ぐ慧人を見つめた。その目はやはり潤んでいるように見えた。そして、慧人を優しく抱きしめる。先生の体温は、慧人よりも少し低いのか、抱きしめられたその腕がひんやりと心地よかった。
 「先生…?」
 終礼後とはいえ、まだ教室には残っているクラスメイトもいた。幸いクラスの賑やかなメンバーは、放課後になるや否や遊びに行くために駆け出していったので、冷やかしてくるような人はいなかったが。
 「林君、先生は林君のピアノが大好き。林君自身ももちろん大好き。忘れないでね。林君のピアノは、周りの人や、あなた自身を、きっとずっと救ってくれるはずだから」
 僕のピアノが、周りの人や僕自身を救う。そう先生は耳元で言った。もちろん意味は分からなかった。誰かを救うためにピアノを弾くなんて、考えたことも無い。慧人は、ただピアノが好きだからピアノを弾く、それだけのことだった。先生はゆっくりと腕を緩めて、慧人の肩に手を置く。
 「林君、またね。気をつけて帰るのよ」
 慧人を見つめるその目は、もういつも通り明るく優しい真っ直ぐな瞳だった。潤んでいたように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。
 「うん、じゃあまた明日ね、絶対感想聞かせてよね、先生」
 先生は笑顔で応えて手を振った。頷いたりはしなかった。できなかったのだ。先生はいつも真っ直ぐで、嘘がつけない人だから。
 雨の日の教室は、いつも以上に床や机の木の香りが漂う。蒸したその教室を、少しも感慨にふけることなく慧人は後にした。


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