見出し画像

今君に伝えたいこと #13

 受け取ったチリソースのハンバーガーは、やはり慧人には辛すぎた。セットのコーラ(これも普段の母ならきっと顔をしかめるであろう選択だ)で流し込もうとするが、炭酸が舌を刺激してさらに辛さが強調される。
 「おいしい?」
 そう尋ねる母は、コーヒーしか頼まなかった。そのコーヒーもドリンクホルダーに入れたままほとんど口をつけていない。
 「うー…ん」
 自分で選んだメニューのことを"美味しくない"と言うのは躊躇われ、慧人は曖昧な返事をする。
 「そう、よかったわね」
 全くよくない。何一つ、よくなかった。
 車は家とは違う方向へ躊躇いなく進んでいる。後部座席には不自然に荷物が積まれ、いるのは慧人と様子のおかしい母だけ。恒太も那月も、父もいない。辛くて全然進まないハンバーガーと、炭酸のきついコーラ。すべてが"不正解"だと慧人は思った。
 車内には、那月が好きなアニメのCDが流れていた。末っ子で甘えん坊な那月は、兄妹の中で最も強い決定権を持っている。那月が聴きたい曲、見たいテレビ、行きたい場所、それが何より優先された。だからこの車内で聴くのはたいてい、那月が好きな曲。那月がいないのにその曲が流れていることが、ますます那月の不在を慧人に実感させる。心から那月の存在がすぽんと抜けていきそうな、そんな不安な気持ちに駆られた。
 「CD、替えてもいい?」
 母が頷く。CDアルバムをめくり、最近お気に入りのラフマニノフのCDを取り出す。無理矢理ハンバーガーをほおばり、コーラを一気に飲み干し、相変わらず様子のおかしい母と、どこへ向かっているかわからないこの車内の、そのあらゆる不安事項を頭から追いやるように、ラフマニノフの世界に没頭することにした。
 ラフマニノフはとても手が大きい人だったと言われている。作曲家であり、ピアニストでもあった彼が作る曲は、音と音が離れていることが多く、小学5年生の慧人の手では目一杯指を広げても正確な演奏が困難だった。しかしその音符と音符が入り組んだ精巧な美しさに、いつかきっと弾けるようになりたいと思っていた作曲家のひとりだった。
 助手席に座ったまま、ピアノ教本を膝の上に置き直し、両手の爪先を立てる。頭の中に鍵盤を描く。いつもどおりの白と黒がそこに並んでいる。慧人はCDに合わせてラフマニノフのピアノ協奏曲を演奏すべく指を動かした。音を聞き取ることで精一杯で指はとても追いつかない。音がわかっても、その音を奏でるには指がまだまだ全然動かないし、届かなかった。
 けれど、もし。もし、弾けるようになったら。何年後になるかわからない、でも、先生に聴いてほしいな。それから、母に。恒太に、那月に。父はきっと慧人の演奏をまた録音して、職場で聴きながら大げさに自慢するに違いない。すごいだろう、僕の息子なんだ、天才なんだ、って。背が伸びて、手も大きくなった慧人が、見事にラフマニノフやショパン、リストを弾きこなし、みんなが驚き、喜んでいる姿。嗅ぎなれない油のにおいと苦いコーヒーの香りが漂う車内で、いつの間にか指が止まりまどろんだ慧人は、いつか見たいその光景を夢見ていた。



物語の始まりはこちらから


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?