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今君に伝えたいこと #14

 「起きて」
 言われて目を覚ました慧人が見た光景は、夢で見ていたものとはずいぶん違っていて、今自分がどこにいるのかまるで分らなかった。ぼんやりしたまま周りを見渡す。だんだんと視界はクリアになるが、それでもやはりここがどこなのかは分からない。いつの間にか雨は止み、辺りはもう夕暮れで車窓についた雨粒がオレンジ色に輝き始めている。すぐそばに3階建ての小さなアパートが見えた。どうやらここは、そのアパートの駐車場のようだ。
 「荷物運ぶの手伝ってちょうだい」
 のろのろと外に出る。蒸した風が慧人の不安を煽るように吹いた。母は迷いない動作で、後部座席の衣装ケースを持ってそのアパートの階段を上り始めた。ランドセルを背負い、両手にそれぞれ上履きとピアノ教本を持って、とりあえずついていく。"203"と書かれた部屋のドアを、母はノックもせずに我が物顔で開けた。つられて慧人も203の中に入る。人気のないがらんとした部屋は、慧人の家とは全く異なっていた。玄関を開けてすぐにステンレスのシンクとコンロが並ぶダイニングキッチンがあり、その奥にリビングのような部屋があった。西日が射す窓にカーテンはついておらず、遠慮なく橙色の光が射しこんでくる。その脇に大小混在した段ボールが奥にまとめて積まれており、その隣には見慣れたアップライトピアノが所在なさげに置かれていた。 
 母は慣れた様子で靴を脱ぎ、部屋に上がり、衣装ケースを奥の段ボールの山の脇に置く。慧人はランドセルを背負ったまま、玄関に立ちすくしていた。
 「ここはどこなの?」
 慧人が尋ねる。
 「ねぇ、お母さん。ここはどこ?」
 母の背中は、動かなかった。慧人も靴を脱いで母の背中に駆け寄り、そのTシャツを引っ張って声を張り上げる。今度こそは応えてもらわなきゃ困る、不安で不安で、足元から崩れ落ちそうな心許なさを感じていた。
 
 ねぇ、お母さん。お願いだからこっちを見てよ。

 「お母さん!ねえ、ここはどこなの?どうして僕らだけなの?兄ちゃんと那月は?お父さんはここに来るの?明日学校行かなきゃ、先生と約束したのに、ねぇどうし」
 「うるさい!!」
 聞いたことがないほどの母の強い声に、思わず手を放した。慧人に背中を向けたままの母が、肩を震わせている。肩越しに振り返った母の顔は、逆光を受けて深い影を携えていた。瞳だけがぎらぎらと怪しく潤んでいるようだった。 
 「どうして…?どうしてって…」
 目のふちがみるみる赤く染まっていく。こんな母の顔は見たことがなかった。いつも穏やかで優しくて、焼き立てのクッキーと春風みたいな香りがするお母さん。いつも一緒にピアノを弾いてくれた、教えてくれた、褒めてくれたお母さん。もうその母は、どこにもいないのだ、と慧人はその瞬間悟った。
 「そんなの、私が一番知りたいわよ…」

 慧人はランドセルを背負ったまま、母をそっと、それから強く抱きしめた。玄関で放り出してしまったピアノ教本と上履きのことは、慧人の頭の中から、まるで角砂糖のようにしゅわっと溶けて消えていった。 

 母と、二人で生きていくんだ。僕が、母を守る。

 夏の終わり、雨上がりの古びたアパートは、今日の体育館よりも蒸しているように感じた。慧人の顔にも腕にも汗がじっとりと滲む。首筋に滴る汗は、自分の汗なのか母の涙なのかわからなかった。慧人はただ、こみ上げてくる熱いものをぐっとこらえながら、声もなく泣く母を暗くなるまでずっと抱きしめていた。


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