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今君に伝えたいこと #7

 太慈がコーヒーとサンドイッチを慧人の前に置いた。慧人とらるごの契約は、週に5日、1日2時間の演奏をすること、そして必要に応じて調律を行うこと。その代わり、演奏に入る日は賄として好きな飲み物と軽食を太慈が用意する。それで月10万円。実際にはもっと長く弾くときもあれば、忙しくて週に3回の演奏になることもあるが、そこは慧人の自由にしてくれた。調律の仕事は、一般家庭では定期的でも年に1度程度だから、毎月の定額収入は本当にありがたい。それに、仕事内容と慧人の調律や演奏の実力を考えると、おそらく破格の条件だ。最初にこの条件を聞いたときには力不足だと断ったのだが、太慈もまた、麻琴と同じことを言ってくれるのだった。慧人のピアノのファンなのだから、と。
 自家製ベーコンとトマトのサンドイッチをぺろりと平らげコーヒーを飲む。
 「ん、美味しい」
 「そうか」
 太慈は味の感想を聞いたりはしない。でも、知りたいことを尋ねれば惜しみなく教えてくれる。自分もこうありたいと慧人は思う。
 「ごちそうさま」
 そう言って手を拭きながら席を立つ。店の奥、小さなステンドグラスがはめ込まれた壁際に、らるごのピアノはあった。カウンターからピアノまで向かう間に、何とはなしに店内を見渡し、客層や雰囲気によって何を演奏するか決めるのが慧人の習慣だ。
 スーツを着たサラリーマンが入り口近くの2人掛けのテーブルに1人、ときどき見かける顔だ。いつも難しい顔でパソコンや資料と向き合っているが、何度か来店しているということはきっとピアノの音は嫌いではないのだろう。
 常連で太慈の釣り仲間のおじさんたちが、カウンター近くのいつものテーブル席に3人。時折太慈を交えて4人で楽しそうに次回の釣りや遊びの計画を話している。きまぐれにリクエストされる曲はいつも演歌か歌謡曲だ。おかげで慧人のレパートリーはぐんと広がった。
 そして、肩くらいの黒髪の若い女性が、奥の方、ピアノの近くの2人掛けのテーブルに1人で文庫本を読んでいる。たぶん、初めて見かける顔、俯いていてよく見えないけれど。ピアノの近くだし、あまり邪魔にならないような曲にしなければ。 



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