12.「Tokyo」 – 『FLY』 全曲ソウルレビュー –

※2017年12月20日に自作ブログに投稿した記事のサルベージです

未完成を約束された俺たちの人生について

一番大事なことは、きっと言えないことなのだ。

なぜなら、一番大事なことは、きっと叶わないから。

我々は「最善」ではなく「次善」の人生を生きている。

それでも十分に幸運なことだと思うけれど。

耳に心地よく響くシンプルな打ち込みのリズムとアコースティックギターが淡々と流れていく、アルバム『FLY』の最終曲「TOKYO」。

何かを手に入れるために、何かを失わざるを得ない、そんなジレンマをしみじみと受け入れる一曲だ。

誰もが何かを求めてる
俺はただお前だけ求めてる
あんなに色々話したのに
大事なことは結局言いそびれた
Yes we are…
俺は変わってく
お前も変わってく
ありがとう、じゃあな
この街で生きてくには少しの犠牲と腹くくんなきゃな

アルバム1曲目「Sorry Not Sorry」の記事から一貫して、このソウルレビューでは「(A)エロス」と「(B)タナトス」という言葉の対比を取り上げてきた。

これは言い換えれば、「(A)独立した自分自身であろうとする力」と「(B)誰かと一緒にいようとする力」の対比であり、ジレンマだ。

「(B)誰かと一緒にいる」ということは、「(A)自分自身である」ことをある程度あきらめることだ。

その逆に、「(A)自分自身である」ことは、「(B)誰かと一緒にいる」ことをある程度あきらめることだ。

これは両立しないから、どちらかを選ぶしかない。

ただ、完全に(A)か(B)か、どちらかだけに走ると人間の心は維持されないから、誰もがだいたいこれらを、場面や相手に応じて混ぜ合わせながら生きている。

「一番大事なことは叶わない」と冒頭に書いた。

「一番大事なこと」はだいたい、(A)か(B)の最先端にあるからだ。

我々はたいがい、(A)の端か、(B)の端か、どちらかの極端を求めるが、しかし誰もが(A)と(B)の”あいだ”のどこかに位置する人生を生きる。

それで我々は誰もが、自分自身の可能性を十分を活かさなかったような気持ちを抱えながら生きる。

若いうちは未熟で、そういうことに慣れていないから、「一番大事なこと」を口に出して言ってしまい、それが嘘になったことに傷ついたりもする。

やがて生き方を学び、誠実であるためには「一番大事なこと」は控えめに言うのがいいということを覚えたりする。

しかし、やはりそれでは「真の真」である強い気持ちまでは伝えきれていないという心残りは、常に残る。


(A)も(B)も、さらに踏み込んで本気でやろうとすれば、さらにどちらかを犠牲にせざるを得なくなる。

たとえば「表現者としての自分自身の道を追及する」ことは、自分自身と深く向き合って技を磨くための孤独と探求を必要とするので「強い(A)」だ。

あるいはたとえば、「誰かと一緒に生活する」ことは、時間的にも労力的にも「誰かと一緒にいること」に大きな配分をせざるを得ないので、「強い(B)」だ。

そして「強い(A)」と「強い(B)」は、決して十分には両立しえない。

両方を充分に突き詰めることは、できない。

これは、たった一つの有限な肉体でこの世を生きる人間という種である以上、逃れられない運命だ。

何をしにこの街へきたのか
忘れそうになるよ今もまだ
俺はいつも俺で在りたい
何処で何を前にしても

清水翔太は東京にわたってからの10年あまりの生活の中で、「いつも俺で在る」という「強い(A)」を実現するために、どれだけの(B)を「少しの犠牲」にしてきただろうか。


ここで一つ付け加えておくと(A)と(B)というのは一つのベクトル上に並んだ二つの方向という単純なものではなくて、もっと複合的で立体的なものだということは言っておく。

たとえば、(A)のために犠牲になるのが(B)だけだとは限らない。

「音楽の道を究める」という(A)のために、「何らかの学問の第一人者になる」だとか「バスケの日本代表になる」などという(A)が犠牲になる場合もある。

「この人と結婚するから、他のすべての人とのお付き合いはあきらめる」や、「大学の友人とサッカーチームをつくって運営しているから、他の友だちと遊ぶ時間はなかなかつくれなくなる」という、(B)のために(B)が犠牲になることもある。

何が「エロス(A)」で、何が「タナトス(B)」か、というのも、単純に決められるものではない。

たとえば「会社を立ち上げて、社員と地域社会の役に立つ」という行為は、自己実現的な意味合いで(A)とも言えるし、その会社を通して自分自身の体と時間を共同体に捧げているのだという意味合いで(B)と言うこともできる。

そんな風にベクトルは複合的で多面的だ。

無限にあるベクトルを、ある傾向で大きく二種類に分けて、「エロス(A)」と「タナトス(B)」という分類にしてみただけに過ぎない。

その上で話の要点は、一つのベクトルに完全に身をささげられる人はいない、ということだ。

誰もが必ずどこかのベクトルの端ではなく中間に位置していて、そして一つの端に近づくということは、他のベクトルの端には近づけなくなるということを意味している。

1362万の孤独と、秘めた愛

愛してるよ
愛してるのに
こんなにも 一人ぼっち
living in da Tokyo

なぜ俺たちはこんなにも一人ぼっちなのだろうか。

その理由は明白で、俺たちは一人ぼっちになりたかったからだ。

俺たちは自由になりたかった。

誰にも指図されず、誰にも制限されず、自分の生き方を自分で決めたかった。

だから俺たちは「しがらみ」や「約束ごと」が支配する社会を捨てた。

ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行だ。

俺たちが先祖から引き継いだ文化遺産で、これほどありがたいものは他にはそうそう無い。

俺たちは今日を生きるため、森に入るように、畑に入るように、スクランブルをかき分けて、人混みに入っていく。

そこは利害関係にもとづいた機能的な利益社会で、1362万人がお互いに何かをつかみ出し合っている。

凄まじい量の情報と人が移動し、入り乱れ、カネとモノとコトバとキモチの交換がそこで行われている。

そりゃ疲弊もすれば、消耗もするじゃんな。


「東京」というのは共同体の名前ではない。

それは膨大な個人の集合体で、docomoの表現を借りるなら「ONEs」だ。

東京をどんなに愛したところで、「東京」という共同体は無いから、一人ぼっちが解消されることはない。

個人主義は確かに貴い価値を持つが、そのおかげで心が空虚になるのなら、それもまた人間として本望ではない。

「(A)エロス」と「(B)タナトス」の対比と融合を探ることは、「(A)個人主義」と「(B)共同体」の対比と融合の探索でもある。

俺は自由が大好きで、「どんな時でも俺は俺で在りたい」と思って生きてきた。

しかしその結果として、誰かを拒絶して無視することで成立するような生き方になるのは本望ではないと感じて、自分の生き方を見つめなおした。


1362万人が入り乱れるこの場所では、俺たちは離れ離れになるのはたやすい。

「それでいいのだ」「そうであるしかない」とうそぶいてしまえば、話はそれまでだ。

しかし「わかり合ってたいよ だからもっと愛そう」や「君があきれるくらいに 君のすべてを愛すよ」という気持ちを本気で扱うなら、そうでばかりもいられない。

このもみくちゃの中で誰かと一緒にいたいと思うのなら、グッと引き寄せて、手をつないでいることだ。

しかしそれは、自由が利かなくなることでもある。

「俺が俺で」いられなくなる場面も増える。

これを対立関係にせず、中和に持っていきたいというのが、今の俺の頭を占めている。


そのために、「個人主義を尊重しながら、誰かと(できるだけみんなと)もっとわかり合って、深く愛し合いながら生きるためには、どんなスタイルの生き方、そして社会のあり方があるんだろう」ということを考えている。

そしてそういう社会の実現のために俺は働きたくて、仕事をしている。

その答えとなるような、生き方、身のこなし方、心の持ち方、人への接し方はまだ見つけていないし、ましてやまだ言葉にはなっていない。

だから、仕組みにもできていない。

でもそれが、俺たちの世代の重要なテーマだと思っている。

たぶん、清水翔太も同じなんじゃないかと思っている。

そういうことを知りたくて、そういう生き方を見つけたくて、それが実現できないことに戸惑って、仕事をしている(音楽をつくっている、そして社会にメッセージを発している)のではないかと思っている。

そんな風に俺は『FLY』というアルバムを聞いて、ソウルレビューしている。

清水翔太の音楽は、アルバム『PROUD』につづいて、俺たち同世代の気持ちのど真ん中を打ち抜いてくれていると思う。

そういうアーティストが同世代にいてくれることが、俺たちの幸運だ。

いつか清水翔太と語り合い、同じテーマを見据えた仕事をできたらいいなというのが、俺の夢だ。


書く力になります、ありがとうございますmm