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6.預定どおりに不条理


 人間はしばしば、自分自身の人生そのものに裏切られる。
常に裏切られ続けている、と言ってもいい。
人生が決して人間にとって満足のいくものにならないことの理由の一つとして、人間が人生の主体であるのか客体であるのか、そのけじめが、一度としてはっきりとつくことがない、ということが挙げられる。


 トシが彼の人生において最も幸福だったのは、中学三年生の二月と三月、十五歳のときだった。
トシのこの幸福を、世の中で最も重用されている、いわゆる平凡であることの幸福とでもいうような、不満と満足のバランスが絶妙の均衡を保っている状態のようなものだと理解してはならない。
また、現状に対する不満が形を変えたものとしてしばしば語られるような、いまや失われたがゆえに、実際にその生活を構成していた各部分についての見通しがあいまいになり、各々に都合のよい部分だけを思い出すことによって、
それがまるで美しいもの一辺倒であったかのように語られる思い出話のようなものであると理解してもならない。
トシが十五歳のときに見た幸福とは、社会の諸条件を勘案して評価される必要などまったくなく、ただどちらを向いても、綿密に隅々まで色とりどりの幸福によって埋め尽くされた、非常に単純明快な、ある完成された固有の幸福であった。
その特異な点、まさにそうであるからこそ、その幸福が生粋のものであるとも示している点とは、
トシがその二ヶ月間を過ごしているまさにそのときに、これはあとにも先にも類を見ない、正真正銘一点ものの、ある完成された最も美しく幸福な生活をしているのだと、トシが彼自身で完全にそれを理解していたことである。
トシが自分のしていることを完全に理解していて、しかもそれがまったく正しかったからこそ、その後に何年経っても、その理解を修正する必要などまったく生じなかったことが、驚くべき事であり、この幸福の特異な点である。

 より長く生き、人生のさまざまな側面を知った時に、反省的に振り返ってみれば、かつての自分の生活に対して違った視点を持つことができ、それでいて気づける幸福や誤解もある、というようなものではまったくない。
それとは逆に、より長く生き、人生のさまざまな側面を知ったからこそ、反省的に振り返ってみたときに、今より無知で未熟な十五歳の自分がその当時の生活に対して示した理解と判断が、やはり正しかったと新しく知るような、
経験による批判が体験の解釈の変更をうながすのではなく、かえってその体験のやはり正しかったことを補強するようなものなのである。


 それでトシは、そのときに、十五歳のあのときに死んでおくべきだったのである。
「べき」というのは義務のことではなく、それが唯一のもっとも望ましい形であるという意味だ。
ところが、トシは死ななかった。
というのも、その決断はそもそもトシのものではないからだ。

 人生とは、その始まりにおいても、終わりにおいても、人間の意志とは無関係なものだ。
人間は、突如始まり、またいつ終わるともしれないこの人生に、いくらかの意志を反映させようと努めている。
舞台やルール設定など、場を用意するのはあくまで人間ではなく、人間は結果的に置かれた場所で人生を営むのである。
ならば人間は人生の客体として、あくまでもすでに用意された場所において身をゆだねていればよいのだと決め込むことができるなら、それはそれで苦労の無いことではある。
ところがもちろん、そうはいかない。
人生という言葉には、すでに個人としての人間のあり方が埋め込まれていて、人生の客体として生きていくということは、もしそれが理論上可能であるとしても、あまりにも辛くてとても生きていくことができないほどで、現実にはそれは不可能なのである。

 人生とはそもそも主体的であることによって獲得されるものなのだが、しかし人生が主体的なものであるとするにはあまりにも重要な多くのことが人生の主体性から排除されている。
それで人間はしばしば、自分自身の人生そのものに裏切られる。
あるいは、常に裏切られ続けながら生きるよりほかないと言うのが正しいと思われる状況を、生きているのである。

書く力になります、ありがとうございますmm