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12.パスタ。と、水。と、会話。


 トシはジェノベーゼを、イチはあさりとしそのパスタを頼んだ。
「いい感じじゃないですか。居心地いいですね」
 四人がけテーブルのソファ席に座ったイチは、明るく清潔な店内を見わたしながら、正面に座るトシに向かって言った。
「悪くないだろ。長居するにはいいと思ったんだ」
「トシさん、ファミレスとかチェーン店とか嫌いかと思ってました」
「俺も大人にもなるんだろうな。手元にあるものの価値に気づくべきだと思うようになったよ」
「チェーン店の価値なんて、眼中なかったっすからね」
「今となっては、逆にクールだとも思うしな。欲望ってのは常に、自分が持ってないものに向けて引っ張られるじゃん。持ってないから、欲しいと思うだろ。でも逆に手元にあるものをいいものだと認めて、それを欲しいと思うなんて、人間の理性と知性による仕業だという気がするわな」

 冷えて濡れたグラスを握り、トシは氷水を飲みながら言った。
 イチも氷水を口に含み、少し納得いかないところがあるかのように言った。
「理性とかストレートエッジとかトシさんはよく言いますけど、小さくまとまるなとか他人の顔色をうかがうなとかも言ってましたよね」
「そうだな」
 トシは言葉を探した。
「俺も年齢と経験を重ねて、大人になったんだと思うよ。大人ってのは何かというと、子供のことを考える人間だ。子供ってのは、自分の子供のことだ」
「はあ」
「子供が少しでも幸せになれるように、生きやすい社会を作ろうと思うと、今ある社会を否定してゼロからすべて作り直すよりも、今ある社会のいいところを見つけて、悪いところを少しずつ改善して使っていくほうがずっと効率的で合理的なのは明らかなんだよな」
「まあそうですね」
「結局、自分の気に入るように社会を変えたいというのは、単なるエゴだ。自分のことよりも、他人のために何かをしたいと思うのが、大人なんだと思うよ。目的があるときに、合理性も初めて生まれるもんだ」

 トシは今の自分にいかに納得しているかを、少し言い訳めいて説明しながら、言葉では何とでも言えるものだと思っていた。
今、自分の口から出ているのはすべて本心に基づいた言葉で偽りはなかったが、しかし自分はいつから大人になりたいなどと思ったのかを問い返しても、これといった答えは浮かんでこなかった。
「ふーん。それで他人のために、何をするんですか?」
「さあ、わからん。他人といって、身と心を捧げるべき他人も、現状俺にとって抽象的な未来でしかないしな」
「抽象的な未来?」
「日本の未来、世界の未来」
「そのために何をするんですか」
「学び、するべき仕事を見つけてすること」
「するべき仕事ですか。ぼくらが持てるんですかね。大した飢えも持たないぼくらは、他人のエゴのもとに飼いならされるだけな気がして」
「そうねえ」
 トシは少しの間、言葉を探した。

「『目的のために、崇高な死よりも、卑小な生を選ぶのが成熟した人間だ』って、攻殻機動隊のセリフにあった。お互いのエゴにもとづいた競争とつぶし合いの果てに、〈孤高の勝利〉か〈殉死の悲劇〉の二択のみを待つというロマンを、俺はきっと捨てたんだろうね。共存という妥協と折衝の苦労に擦り減らされていく、生存の道を選択したんだよ」
「そこまで自分を捨てられるもんですかね。僕も、医者にも『焦るな』ってよく言われて、言ってることはわかるけど、なかなかそこまで悟れるものでもないというか」
 そこでパスタが運ばれてきたので、トシとイチは自分たちが夕飯を食べることを思い出した。
「まあ実際は難しいね」
 店員がパスタをテーブルに置きやすいよう、少し上半身を横に傾けながら、トシは言った。

 成熟という言葉で覆い隠していながら、たぶん本当は一人で生きて死んでいくことを寂しいと感じ始めただけなのだろう。
しかしもしかしたら、それこそが成熟なのかもしれないなどと、思考はまだぼんやりと進んでいたが、言葉にはしなかった。

書く力になります、ありがとうございますmm