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7.耐えられる無限

 働かない、仕事をしないという点で、今のトシを責める人は多い。
いや、責める人はめったにいないが、人によってそれぞれに違った表現で、トシの現状と将来に口を出してくる。
「どーすんだ、大学戻んのか?」とざっくばらんに声をかけてきたり、「どうするつもりなのよ?」と詰問してきたり、建設現場の大工の職に誘ってくれたり、そんなところだ。
しかしなんのために?
それがトシにはわからない。
わからないから、働けない。
自分のほうからやりたい仕事もないし、自分がすることで誰かのためになる仕事があるとも思えない。
働いたほうが、人からほめられて気分もいいし幸福にもなれるのかもしれない。
しかしトシは、それを心から欲しいとも思えないのだ。

 満たされた生活において、人は何に向けて生きればいいのだろう。
欠乏も、理想も、義務も、目的も無い。
つまり仕事がない状況において、人は何において行動するだろうか。
トシが自室の革張りのチェアにゆったりと体をあずけながら世の中を眺めてみたとき、人々が「仕事」といって後生大事に抱えている案件の多く(トシの感覚としては、半分に近いといっても言い過ぎではないと思えるほど多くの案件)は、別にやらないでおいても誰も困らないような事に見える。
産業革命から数百年、生産性は比較にならないほど破格に上昇し続けている。
ところがそれにもかかわらず、今でも人々は週に五日、一日当たり八時間かそれ以上も働いているのだ。

 人間は明らかに豊かになっているのに、人々は変わらず忙しく、全体として同じだけ働いている。
となれば、百年前にはしていなかった仕事を、現代の人々はしているのだ。
生産性の向上が、人の労働を減らす方向ではなく、人の生活を豊かにする方向に投入されているのだ。
光ファイバーを敷いて維持したり、いくつもの不測事態に対して保険をかけたり、広告戦略に血眼をあげたり、海外旅行に出かけたりする。
なるほど、これはこれで大変結構な事である。
百年前には考えられなかった様々な体験や安全が、今では日々の生活の中に当たり前のものとしてたくさん組み込まれている。
しかしそれらの多く(トシの体感では半分ほど)は、余暇や可処分所得の領域に属するものだ。
余暇や可処分所得の領域に属するものを仕事にしているということは、結局彼らは、遊んでいるのだ。
遊んでいるのに、「辛い辛い」と泣き言を言いながら、月曜日の朝に暗い顔をして家を出ていく人のことが、トシにはわからない。
やりたい人はやればよいが、やらなかったからといって、それで何か問題が生じるものでもないし、現実的に生じていない。
トシは自分が働かなければならない理由に心当たりがなく、まるで納得もしていないので、働けないのだ。

 もしも現代生活にまだ意義のある仕事が残っているとすれば、子を産み、育てる事だけが、満たされた社会に残された最後の意義ある仕事になる。
これは人の生殖機能が続く限り、いつまでも絶えることがない。
それで他にほとんど打つ手のなくなった現代社会では、人々にこの社会を維持するだけの行動を促す原動力として、性欲と家族をもてはやすのである。
トシは地上波のテレビを見ていると、いたたまれなくなる。
なぜならバラエティ番組であろうとニュース番組であろうと、そこには必ず容姿の優れた若い女が映っていて、明らかに視聴者の性欲に訴求する目的でそこにたたずんでいるからだ。
あるいは、毎日膨大な量で刊行されている漫画の一つを手にとって眺めていると、同じくいたたまれなくなる。
明らかに読者の性欲に訴求する目的で描かれたシーンやコマに満ちているからだ。
そんな時、トシは優れた女の体が欲しくなる。
そして同時に、自分はそこから疎外されて手も出せない立場にいるのだという事を思い出す。
優れた女の体にありつくためには外に出て社会性を発揮し、何らかの運と実力を伴った出来事に出会う必要があるが、自分にはそのうちのどれ一つとして持っていない。
それどころか、家から一歩も出ないのだから、一歩近づく事すらできない。

 この点において耐えられない人は、外に出て、自分の実力を証明したいと思うのだろう。
やらないでも誰も困らないこと、偉そうなお題目を掲げながら、さも意義ありげな事業として手掛けている人々の動機は、ここにある。
彼らのほとんどは、性的アピールをしているに過ぎない。
しかしトシは、2つの理由において、別に優れた女性の体にありつけなくても、耐えられるのである。
①インターネットを通じたディスプレイの向こうに、無限通りの女性像をながめ、真に抽象的な「女性」と交わる手淫をしているから。
②かつて、一度現実の女性と恋をしたことがあり、その体験において完膚なきまでに全方位を幸福に埋め尽くされた体験をすでにしてしまっているから。

 トシにとって、物語的な意味での「人生」はすでに閉じてしまったものだ。
もしもトシの命がこれからもつづくとすれば、トシの生きる場は想像力の中で十分であり、想像力の中こそが最善なのである。

書く力になります、ありがとうございますmm