10.「FIRE」 – 『FLY』 全曲ソウルレビュー –

※2017年3月5日に自作ブログに投稿した記事のサルベージです

「FIRE」に焦がされて

いきなり自分のことを語るが、かつて俺の座右の銘は2つあった。

①「欲望において譲歩してはならない」

②「心に嘘はつけない」

①はフランスの精神分析学者ジャック・ラカンの言葉、②はHY「366日」の歌詞の一節だ。

座右の銘として、就活の提出書類に書いたこともあるから、それなりに「ガチ」な話だ。

2つあるが、俺にとってはどちらも同じことを意味していた。

つまり、心に従って生きること、だ。

今では、この2つの言葉を、かつてのようにことあるごとに参照するということはなくなったが、生き方としては同じように大切にしている。

そしてのちに清水翔太が「366日」をカバーすることになるのは、単なる偶然で、嬉しい好運だった。

同じ時代を生きる同世代として、この歌が同じように心に響いたのだろう。

心と言葉の乖離

「FIRE」という曲は、イントロ無しでピアノのコードが鳴り、すぐに清水翔太の歌が入って始まる。

その歌いだしはこうだ。

I’m Sorry 嘘なんだ
どうせそう言いたくなるさ

いきなりの「嘘」という言葉に、ハッと胸を突かれる。

普通、人はそんなに嘘はつかない。

しかも、それを誰かに面と向かって告白し、謝る場面など、めったにない。

「嘘」が必然的に意味するのは、一貫性の欠けた行動だ。

ある時には何らかの意図があるかのように振る舞い、別の時には別の意図があるかのように振る舞う。

その次のラインはこうだ。

君に伝えたって
I’m a Bad Boy 答えはNOさ

何を伝えたって、それは「どうせ“嘘だった”と言いたくなる」のだろうか。

後の歌詞から類推するに、それは「君が好き」という言葉だ。

「君が好き」と言ってもいいんだけど、「I’m a Bad Boy」だからどうせ「答えはNO」だし、それどころかたぶん、後々には「嘘だった」と撤回したくなる。

この歌い出しはとても静かでありながら、そういう内容の、どうも穏やかでなさそうな状況を歌っている。

この「FIRE」という曲は、誰かへの熱い想いを「炎」というメタファーに乗せて歌い上げる。

しかし、その想いは「君が好き」という単純で穏やかな「言葉」にはとても込められないものだ。

そこに、「君が好き」をリリースした二十歳の頃の清水翔太からの変化を見て取ることもできる。


言葉というものは他人からの借り物であり、限界があるものだから、常に不自由で、いつも真実と一致しない。

ジャック・ラカンの理論である「現実界・象徴界・想像界」のWikipedeaの項目に、ちょうどいい表現があったので借りてくる。

どうがんばっても言葉だけでは現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが、同時に人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、どちらも的を射ているようにも思える。

「FIRE」という曲では、誰かへの想いが熱く燃えさかっている。

ところが、これを適切に伝える表現が見つからない。

見つからないから、誰かに伝えることもできないし、それどころか、自分で理解することもできない。

頭で考えること
心が感じてること
1つにならないのはなぜだろう
本当に言いたいことと
本当は言いたくないこと
伝え方を間違うのはなぜだろう

なぜ、その想いは、誰にも(本人にも)捉えられないものなのか。

それは、その想いを表現し、受け止める土壌が、この社会のどこにも無いからだ。(言葉とは、個人のものでなく社会のものだ)

普通、今の社会で誰かを強く想えば、それは「恋」で、その人のことを「好き」なのだろうと理解される。

そして「好き」であれば、そこに「つがい(カップル)」が誕生し、やがて「家族」へと向かうだろうと想定される。

しかしそれは、すべて後づけの理論であり、誰かが作った言葉に過ぎない。

原初にあるのは、単なる「FIRE」。

特定の誰かへの欲望であり、単なる衝動だ。

そしてこのズレ、この不一致が、この歌にあるような苦悩と混乱を生み出す。

表現も理解もできないから、自分の行動の意図が自分でもわからず、一貫性の欠けた行動になる。

その気がなくても、嘘をつかざるを得ない、結果として嘘になってしまうという事態も生まれる。

なぜ炎が危険なのか

この「FIRE」という歌で、自らの想い、欲望=炎に身をゆだねるのは、非常に危険なこととして扱われる。

何もかもを燃やして My Fire
全て失っても会いたいんだ

かつて、過ぎ去りし時代、身を焦がすほどの想いが、危険なものとなる時、そのリスクや障害は外部にあった。

「外部」というのは、想いを寄せる「当人」と「その相手」以外のところにあったという意味だ。

たとえば「ロミオとジュリエット」や「人魚姫」や「曽根崎心中」のように。

その境遇においては、二人が寄り添うことを周囲の状況が許さない。

身を引けば命が助かるのに、燃えさかる想いを駆動力に、その身を寄せることによって命を落とす。

しかしこの「FIRE」の歌詞においては、2人を取り巻く状況に、困難や障害があるわけではない。

むしろ危険なのは、内側から湧き上がる想いそのものだ。

内側から湧き上がり、巻き起こる炎が、この身を焼き尽くす危険なものとして描かれる。


ここで、炎の特性を3つ挙げておこう。

この歌において、炎は欲望や衝動のメタファーであり、それは炎も欲望も共に、以下の特性を合わせ持つからだ。

①自発性 = 誰の意志とも無関係に勝手に発火し、誰にも制御されることなく自然と燃え広がる。

②不可逆性 = 一度燃えたものは、決して元の、燃える前の状態には戻らない。

③エネルギー = 銃弾の発射や自動車の駆動など、強大な力は炎の力によって引き起こされる。


欲望とは内側から湧き起こるものでありながら、意志とは無関係で、制御不能(①)。

そしてこの炎は「君」へと燃え移るだろう。

しかし二人が同時に燃えている時、それが必ず望ましくない事態になるわけではない。

お互いに燃えているというのは、それこそ「両想い」というやつで、その結果として我々は生まれ、人はそうして歴史をつむいできたからだ。

それだけのエネルギー、生命を駆動し、新しく生成させるほど力があるという点で、この炎は確かに危険だが、人を温め、助けてきたのもこの炎だ。(③)


この歌において、炎に身を任せることをためらうのは、相手に燃え移り、そこで燃えさかった後に、自分が身を引くだろうことがわかっているからだ。

今、欲望や衝動という炎に身を焦がして「君」を求め、燃え移り、二人で共に炎に身を任せたとしても、最後にはまた自分はよその方角へと立ち去るだろうと予想がついている。

「I’m Sorry 嘘なんだ」と、どうせいつか、そう言いたくなるのだ。

最初から全部知ってたんだ
だからこんなに胸が痛いんだ

初めは自分の中で着火し、燃え始めた炎が、「君」に飛び火して二人を燃やす。

その後に自分が身を引いたら、「君」は身を焦がしたまま、やり場の無い炎を一人で抱えてさまようことになる。

それは残酷な事態だ。

なぜなら、燃えてしまった「君」は、もうその火を自分の意志で消すことも、着火される前の自分に戻ることもできない。

不可逆性 = 燃える前の状態には二度と戻れない、のだ。(②)


さて、誰かの欲望によって勝手に着火され、その後に一方的に身を引かれた結果、身を焦がしたままやり場の無い炎を抱えてさまよう姿。

こういう状態が実際に生まれるとしたら、俺はこの姿に見覚えがある。

多くの人が、同じように覚えがあるだろう。

「I’m a Bad Boy」と言って、誰かの前から姿を消そうとしている男の態度。

そしてその態度を理解できず、受け入れられず混乱する女。

日本中で、そして世界中であまねく見られるドラマ。

これはたとえば加藤ミリヤやAdeleがくり返し歌うテーマであり、「366日」や「NAO」などで仲宗根泉が歌ったテーマだ。

「366日」は、姿を消していく男に心を持っていかれる女の内面の歌だった。

「366日」をカヴァーした清水翔太は、それがどれだけ心痛める経験で、耐え難いものかということを、心と頭でわかっている。

わかっていながらそれでもなお、誰かを焼き尽くし、立ち去るとしたら、それは立ち去るほうにとっても心痛める辛い経験になる。

あとに炎を残したまま身を引いたほうも、残されて炎を抱えて行き場もなくたたずむほうも、共に深い傷を負う結果になる。

炎には、それだけの危険がある。

だから、ためらう。

それだけの炎を、このまま燃やすに任せていいのだろうかと自問する。

心に従い生きるということ

座右の銘にしている言葉を見てもわかるように、俺は基本的に、心の動きを肯定する。

しかしそれは時に、厳しく辛いものでもある。

366日の「心に嘘はつけない」という言葉に俺が感動するのは、それが「望ましいか」「望ましくないか」に関わらず、心の動きをただそのままに受け入れ、肯定するところだ。

一人になると 考えてしまう
あの時 私 忘れたらよかったの?
でもこの涙が答えでしょう
心に嘘はつけない

忘れることができたなら、心は平静に保たれ、平穏無事な日常生活を営むことができたかもしれない。

しかし現実に、忘れることができず、流れる涙がそこにある時、「忘れるほうが望ましいのかもしれない」などと考えることに、何の意味があるだろう。

「あなた」へと向かう心の動きを抑えることなど、誰にも(本人にも)できない。

そして、これを無理に抑えようとするところから人は狂っていく、とジャック・ラカンは言っている。(と、俺は認識している)

悲しみや嘆きよりも辛い、本当の不幸は「心に嘘をつく」ことだと、俺は思っている。


「FIRE」という曲では、炎に身をゆだることにいくらかの躊躇はありながらも、結局は炎に身を任せて「君」のところに突き進む決意が示される。

何もかもを燃やして My Fire
全て失っても会いたいんだ
君に見つめられて
頭に焼き付いて
消せはしない
もう止められない I’m on fire

それでいい、と俺は思う。

その炎は誰かを焼くだろう。

誰かを傷つけ、二度と元には戻れなくさせるだろう。

それでも消せない炎なら、無理に消そうとしたり、見ないふりをする必要などない。

突き詰めれば誰かを傷つけるだけであり、社会的に望ましい結果など何も生まないかもしれないとしても、心に嘘をつくぐらいなら、それをしたほうがいいと思う。

なぜなら、もしもそれをしないとするなら、人間は他に何をすることがあるのか、俺には思いつかないからだ。

生きるとは、それをすることだ。


しかし、心の動きによって、そこにすれ違いや摩擦はいつも生じる。

これについては、一人ひとりがそれぞれの場面で考えていかなければいけない。

そこを調整しながら、それぞれの心を尊重した上で、どうにか解決し、共に生きていくということが、この社会で生きていくということだ。

「これだ」と言える唯一の解答など、ありはしない。

たとえば、炎に身を任せただけの自分勝手な行為は、誰かを傷つけるかもしれない。

「恋がこんなに苦しい こんなに悲しい」と思わせるほどの辛さを誰かに味わわせることを、どう考えるのか。

「FIRE」という曲の中ではそこまでは触れられてはいない。

ただ、迷った結果、炎に従うことに決めたことがわかるだけだ。

その後のことについては何が起こるか予測することなどできないから、また何かが起こった時に考えるということだろう。

それでいいと思う。


ただ、俺が一つ思うことがあるとすれば、あらゆる「想い」はすべて「暴力」(「魔法」と言ってもいい)で、必ず相手を傷つけるということだ。

これは恋愛に限らず、教育や芸術も同じだと思う。

誰かに何らかの影響を及ぼす時、相手は二度と元には戻れなくなる。

命とは不可逆なものだから、元に戻れなくなることを必要以上に恐れる必要はないが、しかしそこには多かれ少なかれ、必ず痛みが伴う。

命は生まれる時に苦痛の叫び声を上げる。

命と命はいつもぶつかり合い、影響を及ぼし合いながら、成長と共にいつも困惑と混乱を繰り返し、十分に賢いということは永遠になく、やがて最期の苦痛と共に去っていく。

そんな中で、「添い遂げる」ことに対して(今の社会で)ある程度の価値が置かれるのは、相手を「支え」て「直す」覚悟があるからだと思う。

自分が良かれと思って相手にすることも、必ず何らかの傷や損壊を相手に生じさせる。

ただ、その傷や損壊を乗り越えて、修復し再構成した先に、前とは違う新しい何かが生まれるものだ。

その段階に至るまで、「支え」て「直す」には、ある程度の時間と労力が要る。

そこまで含めて「想い」を届けると、相手に対しても誠実な態度だから、これが今の社会では尊いとされるのだろうなと、俺は思う。

ただ、そこまでやるかどうかは個人の自由だし、時代や場面が変われば変わりうるので、これが唯一正しい方法だとは俺は思わないけれど。


このあたりのことに関しては、「FIRE」の中では以下のラインで少し言及しているように思える。

なお燃え続く炎に
愛という水を注いで

もしもこの炎でお互いの身を焼いた先に、破滅でも別れでもない結末があるとしたら、「愛という水」の使い方次第なんだろう。

水を注いで、この炎をしずめて欲しいと願っている。

しかし炎は、水を注いででも抑えたほうがいいのか?

炎に身を焼かれつづけながら生きていくという方法はないのだろうか。

炎のエネルギーこそが、命を駆動させる力でもあるのだし。

心のまま生きることと、炎に焼かれ続けながら生きることに、違いはあるのだろうか。

この問いについては、先ほどのラインの続きから、俺には思うことがある。

終わらないDramaのように
いつまでも続く Fallin’

炎に焼かれる魂がぶつかり合うドラマの連続とは、いつまでも続く転落のようなものだと、ここで言っている。


ここで俺が思い出すのは、Mary J. Bligeの「No More Drama」という曲だ。

Mary J. Bligeは彼女の激しい人生の中で、いくつものドラマをくぐり抜けてきた。

そのドラマの中には、恋多き彼女のいくつもの恋愛の経験も含まれている。

そして彼女は2001年、30歳の年に、『No More Drama』というアルバムを発表する。

そこには、もはやこれ以上の激動はたくさんだという、彼女の想いが込められていたと言っていいだろう。

そのタイトル曲のビデオがこれ。


炎に身を焼かれ、ドラマの連続を生きるのはもうたくさんだという強い想いを、このビデオと曲から見て取ることができるだろう。

いつまでも続く魂のぶつかり合いだけでなく、「寄り添う」ことに価値があるかもしれないという社会の知恵は、こんな苦しみへの反省から生まれてきているのかもしれない。


清水翔太がポップミュージックの未来を切り開く

さて、ここまでは「FIRE」の歌の世界について語ったが、ここからは音についてだ。

この「FIRE」という曲について、ツイッター上で清水翔太自身が「最高傑作」と宣言したとおり、彼自身がこだわり抜いたであろう音作りになっている。

作詞作曲はもちろん、アレンジャーとしての清水翔太の面目躍如といえる一曲だ。

今回のアレンジの中では、いつにも増して「声」が効果的に使用されている。

ツイッター上で「カラスの鳴き声みたい」と言われていたエコーなど、自身のヴォーカルをサンプリングして様々に配置し、重層的な音の世界を形づくっている。

そしてだからこそ、ヴォーカリストとしての清水翔太のクオリティが活きてくる。

アレンジも手がけるようになったことで、元々持っていたヴォーカリストとしてのアドヴァンテージが二重に活かされるようになったという印象だ。

以前であれば、清水翔太の歌がまずゆるがない主役としてあって、その歌の世界をいかに彩って引き立たせるかというのが、アレンジの位置づけだった。

しかしもはやアレンジの中にもヴォーカルが入り込んだ今、歌とアレンジという二分法はあまり意味を成さない。

歌とアレンジが一体となり、ひっくるめて清水翔太の「音楽」になったと言えるだろう。


そしてこのアレンジを聞くとき、俺の心は震える。

この「FIRE」というシングルの発表の仕方として、まずMVのショートバージョンがYouTubeで公開された。

そこで聞けたのは2回目のサビまでだった。

ショートバージョンといってもほとんど1曲として成立しているのではないかと思えるところまで聞けるのに、この先のフルバージョンでいったい何が残っているのだろうと思うと、予測不可能でワクワクした。


結果としてその先にあったのは、まず16小節のブリッジ。

次に、リズム隊を排除した静かなサビ。

そしてリズムが戻ってさらに盛り上がるサビがもう一回。
(この戻ってくる前のね、一瞬の「タメ」で、わかってることだけど鳥肌が立つよね)

ここまでの構造だけ見ると、わりと普通だ。

「Aメロ → コーラス → Bメロ → コーラス → ブリッジ → コーラス」という、ポップソングの形式を忠実に守っている。

しかし俺は初めてこの曲のフルヴァージョンを聞いた時、このアレンジ、そして清水翔太の音楽を聞くのがあまりにも楽しかったものだから、「どうかこれで終わらないでくれ」「もっと続いてくれ」と祈るようにして聞いていた。

最後のサビが終わる時、「このまま終わってしまうのかな?」と思いながらも、同時に「どうかそんな普通の形式をぶっこわすほど、やりまくってくれ清水翔太」という気持ちで聞いていた。
(あとどれぐらい曲が残されているかも知りたくなかったから、プレーヤーのタイムカーソルも見ないようにしてたしね)

そこに飛び込んできた、あの「オオ、オオ、オオ、オ、オッオー」というあのアウトロのヴォーカル。

そのまま終わりそうになり、「まだ終わらないでくれ」と祈る俺の耳に飛び込んできた、「Break it down now」という掛け声と共に、もう一度高まる音。

これら一連のアウトロを聞きながら、俺は本当に感動した。

清水翔太はいつか、ポップソングの形式を壊し、本当に新しい音楽を作っていくのだろうと思えた。


次のアルバムにおいて、おそらく清水翔太はまた新しい何らかの仕掛けを施してくるだろうと俺は予想するのであるが、それは彼がもはやJ-POPにおいて唯一無二の存在になってしまっているからだ。

清水翔太が次の時代を切り開いていくのを、ファンの勝手な希望として、俺は見たい。

そしてそれは清水翔太の、ミュージシャンとして、また一人の人間として、彼自身の心に従って向かうような方向になるだろうと思う。

それこそが、ファンが望むものであり、その先にこそ、誰も見たことのない本当に新しいポップソングがあるだろう。

まずは何より、「My Boo」「FIRE」に続く次のシングルがどのようなものになるのか、まるで予測不可能で、本当にエキサイティングだ。


書く力になります、ありがとうございますmm