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16.アンチロマンティック


 平野よりもほんの少し早く、山がちなキャンパスの景色が秋の色を見せ始めるころ、夏休みが終わり後期の授業が始まる。
その朝も、いつものように次々とバスが到着し、運んできた若者たちをキャンパスに向けて吐き出していた。
バスターミナルから教室棟へ向かう若者たちの列の中に、イチがいた。
イチは周囲に目を向けることもなく、ひたすらに内部に潜って考えていた。

 イチはどうすればよかったのだろう。
あの日、教室でフミが目の前に座ったとき、イチの心と体が目の前の女のコを本気で求めていることに気づきながら、それを無視すればよかったのだろうか。
それは確かに一つの手だろう。
しかし、その場合、イチは他にいったい何をすればいいのだろうか。
本気で求めるものを無視するのであれば、人生とはいったい何だろうか。
なるべくおとなしく日々の飯を食うことだけが人生だとしたら、初めからやらずにあきらめてしまうほうが害悪をより少なくするのに望ましいのではないか。
しかし、イチは生まれてここに生きている以上、さっさと死ぬことが正しいという考えは受け入れられなかった。

 そうすると、イチがフミに迫って愛を伝える、そのやり方がまずかったのだろうか。
事後的に見ればそうであったような事実を、あのときにしっかりと見極めて、それを正直に正確に伝えることができていれば何かが違っていただろうか。
つまり、イチとしては何はともあれフミを抱きたいので、他のことはさておきひとまずホテルへ行って楽しみませんか、と。
なるほど、それは確かに飾り気がなく、事実の中心的な部分だけをうまく伝えている。
しかし、それではフミを簡単に逃がしてしまい、抱くチャンスを永久に失っていただろう。
それに何より、あのときのイチはそんなことを言いたかったのではなかった。
あのときイチは、心の情熱を包括的に伝えたかったのであるし、イチが求めていたのは抱くことだけではなく、愛することだった。
愛の行方のすべてをイチは求めていて、その相手はどうしてもフミがよかった。
その意味で言えば、あの告白の言葉はやりとても正直で正確だった。
未来を知らないあの時点でのイチに、あれ以上を期待するのは不可能だ。

 となれば、イチの心に暗い影がさした後も、やはり無理してでもフミと付き合いつづけるべきだったのだろうか。
なるほど、良識に照らして、それは正しいことのように思える。
喧嘩しながらつづいていくのがカップルの常ではないのか。
しかし、イチが望まないままにフミと一緒にいても、それは不愉快というだけでなく、むしろ陰鬱なだけだろう。
どうにも元気が出ず、前向きになれないイチと一緒にいることが、フミに対して誠実な態度なのだろうか。
そんなことには耐えられそうな気がしない。

 そうすると、もう八方ふさがりなわけだ。
あんなに素敵なフミを目の前にして、無視することなどできただろうか。
できるわけがない。
もうすっかり嫌気がさしてしまったときに、それでもまだ一緒にいることができただろうか。
できるわけがない。
あんなに素敵な女のコに対して、こんなふうに酷い扱いをしていいのだろうか。
いいわけがない。
では、イチはこれからどんなふうに生きていけばいいのだろうか。


 こう考えたとき、イチの足はもう前に踏み出せなくなってしまうのだった。
これは単に比喩ではなく、キャンパスを歩く若者たちの列の中で、イチはただ一人立ち止まっていた。
もう行きつくところまで考えを進めてしまい、完璧に答えが出た。
つまり、何をしてもダメだという答えが。
心境としては、持てる手札をすべて出し切って、最後の一歩でたどりついたのがスタート地点だった、というようなものだった。
もし今までとは違う結末にたどりつく道があったとしても、もうそこまで行く足が無かった。
もうイチには何もできない。
何かをやる理由もなければ、使える手段もなければ、力もなかった。


 イチは少しの間、足元の地面を見るともなく見つめた後、再び歩き出した。
周りの大量の若者たちが全員動きながらイチを追い越していて、立ち止まっているほうがかえって骨が折れたからだ。
ひとまず授業に行くことはできるし、周りの流れに沿って歩くだけならまだできる。
自分からは動けなくても、自分を押す流れはある。
そうして、学部の教室棟へとつづく最後の階段をのぼっているとき、突然強い電圧がかかってショートしたかのように、イチの脳内が麻痺した。
背すじがゾクッとして、全身が冷えて汗がふきだしそうな感覚があり、太ももの内側の筋肉がこわばった。
とっさにイチは立ち止まり、予感に導かれて反射的に目を向けると、イチのななめ前、あいだに一人の若者をはさんだ向こう側を、ミナが教室棟に向かって歩いていた。

 ミナはイチに気づいていなかった。
イチの足を止めたのは、ミナの匂いだった。
イチの鼻腔にミナの匂いが吸い込まれてそれを感知した瞬間、強い性的刺激がイチの体をこわばらせたのだ。
匂いが、イチの体に、ミナから受けたすべての性的刺激を瞬間的に思い出させた。
女性一般という概念は、イチにとって甘い優しさにつながっていた。
それはイチの胸や脚に女性の体が押し付けられて感じるやわらかい感触や少し冷えた体温、イチの男性器を包む女性器や口腔のやわらかさ、あたたかさ、湿り気などが合わさって、一つの抽象間隔へとまとめられたものだった。
しかし、ミナからイチに届いた匂いは、どんな一般性へも抽象性へも収斂されず、ミナの個別性へとまっすぐ向かっていた。
イチはもう一度、ミナを抱きたいと思った。
女のコを抱きたい、わけても特別に、ミナを抱きたいと思った。
ミナから受けた性的刺激という、イチの中に残された過去の痕跡によって、イチはもう一度欲望を発見した。
イチが少しでも自分の足で前に進める方法があるとしたら、それにすがりつくしかない。


第一部 二〇〇七年 十九歳 イチ

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