3.プリンス


 イチは英語圏のポップソングを好んで聞いたが、中でも特別なのはプリンスへの共感だった。
イチにとってプリンスは過去に属する人物だったが、それでもプリンスが歌っているのはイチ自身のことに思えてならなかった。
文学や映画などに覚えのある人なら誰でも経験したことがある、「これは自分だ!」というあの感覚である。
イチはサム・クックやライオネル・リッチーやアール・ケリーも好んでいたけれど、プリンスを聞くときの高揚感は他になかった。


 プリンスがイチにとってこれほど特別な位置にいるのは、プリンスにおいてソウルミュージックがかなりの程度まで完全に世俗化されたということに大きな要因がある。
神がいなくては、あるいは、神を求めなくては、人間にはおもだってやることがなくなってしまう。
神がいなくても、見栄の張り合いを重ねたり金を少しでも多く稼ごうとすることはできるが、よほど鈍感な人でもない限り、それは底なしの徒労だということにやがて気がついてしまうだろう。
そんな中で、プリンスは人間の専念するに値する所業を迷いなく見つけた。
それは、恋愛だった。
恋愛こそ、この世界で人間が真に専念する所業だ。
しかし、そんな迷いのなさの一方で、プリンスは自らの内部にジレンマを抱えていた。
それは彼がソウルミュージシャンであると同時にロックミュージシャンであるという事実から見てとることができる。


 ロックミュージックとは、根無しの人間が「現在」に埋没し、時間そのものと合一することによって永遠を目指す、純粋に刹那的なものである。
それは不満にもとづいた(正当な)現実逃避である。
考えてみれば、誰しも望んでこの場所に生まれたわけではないのであり、たまたまここにいるからといって、そこの流儀を受け入れて従う理由も無い。
そうであれば、たまたま生まれた場所にさっさとおさらばしたり、その場所の流儀に異議を申し立てたりすることは、なんら道義に反する行いではない。

 ところが実際に異議を申し立ててみると、たとえそれが自分自身の思う道理にどんなに適った要求であったとしても、現実は我々の要求どおりに物事を変革するどころか、それを冷たくはねつける。
それは当然のことだ。
というのは、どこの場所に行こうと、そこにはあらかじめ住んでいる者たちがいて、彼らが大切にしている流儀があるからだ。
その流儀を無視して、直截に要求を実現しようとしても、そのような要求はどんな場所でも通りようがない。

 ロックがもとづいているのはこの不満である。
そもそもの始めから終わりまで、何から何まで勝手に向こうからやってきたものばかりであり、何か少しでもこちらの望みどおりに物事がすすんだことなど一度もないのだ。
この不満に対してロックミュージックは、現実をひとまず無視して、ただ情念と欲求のみを見つめる瞬間をつくりだすことができる。
その瞬間において、ロックミュージシャンは主(あるじ、ruler)であり、勝者だ。
ロックは日々の生活から脱け出すことを目指すものであり、脱け出すためのものだ。


 それとは対照的に、ソウルミュージックとは、神あるいは共同体と切り離されては血がかよわなくなってしまうものだ。
ソウルミュージックもまた、一種の不満にもとづいてはいる。
しかし、それは権利主張者の異議申し立てのようなものではない。

 ソウルミュージックとは終着のない祈りであり、ソウルの音を奏で、ソウルを歌うことである。
ソウルとは渇望と結びついており、この渇望によってソウルは脈うち、人を動かす。
その渇望とは自らの存在への問いかけだ。
自分を生んだものは何者であるか、自分は生まれる前にはどのようなものであったか、自分はどこへ行くのか。
これらの深い問いかけをソウルは内に秘めており、それらの探索のすべてがソウルの欠くことのできない一部(body, 主題、主眼)だ。
そしてこれらの問いかけは、生命という大きな枠組みに集約されていくという点において、神や共同体と切り離すことはできない。
ソウルが問いかけ、語りかける「現在」には、先祖と子孫が分かちがたい形で組み込まれている。


 プリンスのジレンマはここにあった。
プリンスはロックミュージシャンであると同時に、ソウルミュージシャンだったのだ。
プリンスは自らの専念すべきものとして恋愛を見いだした。
この恋愛とは、一方において、全身全霊のリビドーには常に忠実になり、その機会があるのなら他の何を犠牲にしてもこれを達成しなければならないものだった。
しかし他方において、一度恋愛相手に出会ったからには、その相手と運命(行く末としての運命、destiny)を共にするべきでもあった。
つまり、前者が「恋愛(sexuality)」であり、後者が「恋愛(love)」であったと言える。
プリンスにおいては、この二つの恋愛を同時に実現しなければならなかった。

 そのため、プリンスの恋愛観は以下のようなものになる。
とてつもなく素敵な女のコに出会ったのなら、その出会いに失礼をはたらかないためには、できれば今夜のうちにでも思いのたけをうちあけ、もし運命(さだめとしての運命、fate。すなわち、ここにおいてはお互いの体)が呼ぶようならば、行けるところ(それはつまりどこなのだ?という疑問は常につきまとうが、さしあたってはこころゆくまで性的交流にふけること)まで行くべきだ。
そして、そのような出会いは二つとない宝物なのだから、決して失ってしまわないように最大の注意を払わなければいけない。

 プリンスとしては以上のような恋愛を理想とする。
しかし、これに相反するような、困惑してしまうほどに驚くべき事実がこの世にはある。
「そのようにとてつもなく素敵な女のコを意外にもたくさん見つけることができる」、ということだ。


 もしもロックの心情に対して素直になるのなら、その日その日に出会ったとびきりの女のコと、衝動にもとづいた過ごし方をすればいいということになる。
もしもソウルの心情に対して素直になるのなら、すでに関係を始めた一人の固有の女のコとの間柄をどのように扱うかという課題だけに専念すればいいということになる。
ところがプリンスが求めるのはその両方なのだ!
世の中には素敵な女のコがたくさんいて、素敵な女のコと出会ったからには深く知り合わなければならないし、知り合ったからにはすべてを捧げなくてはならない。
どちらを捨てることも、自らの心と体を裏切ることになる。
その裏切りこそ、まったく受け入れられないことだ!


 世の中に無数に存在するあらゆる美しい女性との出会いと交流という夢は、共同体からの脱却の夢である。
それに対して、一人の女性と添い遂げるような深く分かちがたい交流という夢は、共同体への所属の夢である。
これは明らかに相反関係にあり、同時には成立し得ない。
そしてプリンスは馬鹿でもなければまったくの無知でもなかったから、プリンスにとって夢を叶える手段とは、現実の恋愛というよりも、どちらかというと音楽になるのだ。

書く力になります、ありがとうございますmm