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14.ランアウェイ


 イチがゼミ合宿から返ってきたのは九月の初頭だった。
夏休みはまだ二週間ほど残っていた。
合宿から帰ってから二日後には「お土産をわたす」という口実で、イチとフミは会う約束をしていた。
イチはなんとなく、これに気が乗らなかった。
合宿でミナのことをイチに告げに来たあの女のコは、イチはフミにべた惚れみたいだね、と、わけ知り顔で言った。
その内容自体も腹立たしかったが、何よりも我慢ならなかったのは、それを言う女のコの顔に浮かんでいた理解と応援の表情だった。
やるせないのは、この我慢ならない状況をつくりだした原因の一端はフミにあるということだった。
他人の勝手な理解などという腹立たしいものを避けるためにも、二人のあいだのことは二人のあいだだけにとどめておくべきなのだ。
きっとあの女のコや仲間たちは、イチとフミのことを羨んだり蔑んだりするのだろう。
イチとフミについて語るのではなく、イチとフミを題材にした俗悪なファンタジーについて語るのだろう。

 そういう落ち着かない気分の中で、イチはフミにおみやげをわたすという名目で会いに行ったのだが、それもなんだかバカバカしく思えた。
合宿からの帰り際に、おざなりなおみやげ屋でひっつかんできたその品物が良いものだとは、イチ自身は少しも思っていなかったし、フミだって良いと思うはずもなかった。
それでも、フミが喜んでくれるのは、その品物が何であろうともイチからフミに贈られるものだからだ。
そんなことはイチにだってわかっていたし、以前のイチならフミと一緒に楽しくなれたはずだった。
ところが、イチのほうで勝手に他人の目をそこに介在させてしまうと、そんなあたたかい場面も茶番に見えてきてしまう。

 おりしもその週の週末には、フミの家に行って両親と一緒に食事をすることになっていた。
フミの家族には、フミを家まで迎えに行った時など、それまでもなんとなく顔を合わせた事はあったけれど、いつか正式に顔合わせをしようという話はよく出ていた。
イチのほうでもそれを楽しみにする気持ちもあったのだが、いざこのタイミングで具体的な計画の話になると、イチはそれをずいぶんとわずらわしく思った。
イチはその食事の場で、フミの両親とそれなりに立派で愉快な受け応えをするだろう。
フミの両親はそれを見て、それなりに好意的な評価を下すだろう。
以前のイチなら、そうしてフミを喜ばせることができるのが嬉しかった。
それなのに、そんなあたたかい場面もまた、もはやイチには茶番に見えてきてしまうのだった。


 その日、イチは以前のように体を密着させることなく、以前のイチならば凌辱しているような気持ちになるからという理由で避けていたような姿勢で、腰を激しく動かした。
それはイチに嗜虐的で頽廃的な喜びをもたらした。
フミを壊してしまいたいという暗く湿った喜びを感じながら、今この瞬間にもフミのことを裏切り、二人のあいだに芽生えた美しく貴重な信頼関係を踏みにじっているのだと、イチは思った。
イチの心において、イチはフミを強姦し、自らをずっと美しく保とうとするイチ自身の自己愛を強姦した。
美しいものであればあるほど、それが汚されたときには、もう二度と元の美しさを取り戻すことはない。
美しさが生まれることや、美しさが保たれることこそが奇跡で、美しいものが台無しにされるのはいとも簡単で普通のことなのだ。
イチはもう、フミをまっすぐに見つめて愛すことはできないし、自分をまっすぐに見つめて愛すこともできないと思った。
そこにはいつまでも、罪悪感というためらいが残るだろう。

 フミとのセックスが一段落した後で、フミの首を背後から抱き寄せて横になり、二人で虚空を見つめてゆったりと黙りながら、イチはこのまま何もかもが終わりになればいいと思った。
自分の残酷さに、時の残酷さに、とにかく何もかもが残酷にできているこの世界に、もうこれ以上付き合っていたくないと思った。
その瞬間、イチは衝動的に、この腕の中に抱いているフミが、今いったい何を見て何を思っているのか聞いてみたいと思った。
こんなに近くにいるにもかかわらず、フミの見る世界をイチは知ることができない。
それは絶対にイチが想像できないことだから、イチがそれを知りたいと思えば、フミに教えてもらうしかない。
イチはそれをフミに聞いてみたいと思った。
今、それを聞いてみなければ取り返しのつかないことになると強く思った。
しかし、イチはもうそれを口にする活力も勇気もふりしぼることができなかった。
イチの体は固くこわばり、どんな言葉も声も、どんな合図も発することができなかった。
イチはもう、知りたいことがあれば知ろうとするべきだし、やりたいことがあれば全身全霊でそれに向かうべきだと、疑う余地もなく信じていたかつてのイチではなくなっていた。


 フミの両親との食事の日、イチはやはりそれなりに要領よくこなしてみせた。
おざなりではなく、きちんとフミの両親のことを観察しながらの誠実な受け応えで、正式には初対面であるフミの両親を十分に満足させるものではあった。
しかしフミはイチの態度の中に、何か嫌なものをかすかに感じた。
もちろん、それは単に、普段とは違う環境におかれた二人の緊張によるものだったかもしれない。
しかしフミの気持ちの中には落ち着かないものが残った。
フミ自身は意識していなかったにしろ、その違和感は前に会ったとき、お土産をわたされたあの日から、少しずつ積み重なっていたものだった。
フミは、そういうわだかまりを放置するような性格ではなかったので、次に会う日を待つまでもなく、その日のうちにそれについてイチに尋ねてみた。
フミとしては、そんなあいまいな問いかけに、何か明確な答えが返ってくるとは思ってはいなかった。
ただ、フミ自身がなんとなく腑に落ちないような不安に感じていることがある、ということをひとまず伝えたかっただけだった。
イチのほうでは、そんなふうにフミから踏み込まれるのがわずらわしかった。
図星をさされるのも気に障るし、それに、ごまかしのきかない性格のフミを納得させるだけの実のある返答をしなければならないのも面倒だった。
イチは一人になりたかった。
イチはもうフミを求めてはいなかった。
求めていないどころか、わずらわしかった。

 それに気づいたとき、イチは終わりを決意した。
イチはそれをフミに切り出すとき、簡明に、終わりにしたいという要望だけを伝えた。
それ以外の説明などは、いっさい言葉にしなかった。
フミはこれを聞いて、混乱を顔に浮かべながらも、いつものように穏やかさと明確さを同居させた態度で、イチの気持ちや考えが「わからない」と言った。
静かにイチを責めるこの言葉は、いつまでもイチの心に残った。

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