見出し画像

わたしが美容室で眠る理由


「もう少し、がんばってください…!」
美容師さんは、きょうもわたしを応援する。苦笑いを浮かべながら、髪を梳く指先にすこし力が入ったのがわかった。ドライヤーの風に洗いたての髪をなびかせて、わたしの頭はゆらゆら揺れる。


だいたい2ヶ月半に1度、上野の美容室に通っている。通っているといってもまだ2年目だけど。それまでは「東京の美容室といえば表参道」と、ちょっと背伸びして行ってみたり、「やっぱり家の近所がいちばん」と、手ぶらでふらふら出かけてみたり、とにかく同じお店を3回以上リピートしたことがなかった。
ホットペッパーのクーポンのほとんどが【新規】または【2回目特典】だったからかもしれない。毎回違う美容師さんに出会うのも、それはそれで楽しいものだ。

ではなぜ今の美容室のリピーターになったのか。
きっかけは相変わらずホットペッパーだったのだけど、3回目の来店を経て通い始めた理由は2つある。

1つは、担当美容師「高橋さん」の提案力にある。
いつも予約するメニューは【カット、カラー、トリートメント】と決まっているのだけど、どんなふうに切るとか、何色系に染めるとか具体的なことまでは考えていない。なにも決めずにそこへ行く。
すると高橋さんはわたしに写真や見本を見せながら、ある程度的を絞ったうえで消去法による選択をさせたり、2択にして改めて提案したものを選ばせたりする。そして気づいたときにはしっかりオーダーが成立しているのだ。席に着くまでなにも考えていなかったのに、まるでもともとハッキリとした要望があったかのような気分になる。

また、2ヶ月半待てずにわたしが自ら切った(明らかに失敗している)前髪を見たときには、「自分で切るならココからココの間だけにしてください」と、簡潔に簡単な解決法だけを提案してくれるし、普段はヘアセットなど何もしないわたしでもわかるように、「こうやって数ヶ所だけちょっとずつ束にしてゆるく巻いてあげるだけでも印象変わりますよ」と、易しく指南してくれるのである。

素人にはできない技術を提供し、素人でもできる手法を伝えられるのがプロだ。
前髪の件のとき、高橋さんを信頼できると感じた。
むりやり会話を盛り上げようとせず、こちらへの質問よりも自身のエピソードの方がすこし多めなのも、楽に過ごせている重要なポイントだ。

そしてもう1つの理由は、シャンプー&トリートメントが寝落ちするほど気持ちいいから。
カットもカラーもシャンプーも、すべて同じ美容師さんが担当するお店で、もちろんカットもカラーも満足しているのだけど、特に高橋さんのシャンプーは最高なのだ。

少し強めの水圧で当てられるちょうどいいお湯加減。ザーッというシャワーの音が心地よく響く。髪全体を濡らしてから、シャンプーのポンプを押す音が聞こえてくる。いち、にぃ、さん、よん、ご。5プッシュだ。これも美容室ならではの贅沢。両手でゆっくり頭を揉むように泡立たせると、たちまちいい香りに包まれる。専売品のちょっと良いシャンプーは、香りから違う気がする。
それからくしゅくしゅ泡のぶつかる音をさせながら、頭全体をほぐすように洗っていく。絶妙な力加減。弱すぎず、強すぎず。本当になんて心地良いんだろう。これを求めてた。これこれ、これだよ。いつもそんなふうに思いながら身を委ねている。
ちなみにシャンプーをされているときのいちばん好きな瞬間は、首のつけ根を支えて持ち上げられながら後頭部を撫でるように洗われているときです。

一通り洗い終わったあとは、トリートメントが待っている。
わたしがいつも予約するメニューでは、最初にカラー、次にシャンプーとトリートメントをして、最後にカットという流れになっているのだけど、このシャンプー後のトリートメントがまた至福の時なのだ。なにがどう良いかって、めちゃくちゃ気持ちよく眠れるのである。

完全に仰向けになっている体にはブランケットがかけられ、目元は柔らかい布で覆われて先程から目は閉じている。頭は温かく、耳元で静かに水の跳ねる音。辺り一面いい香り。
トリートメント中、しばらく放置されている間に眠らなかったことがない。美容室のシャンプー台で眠りにつくのがこの世でいちばん気持ちいい入眠の瞬間ではないだろうか。異論は認めるが聞く耳は持たない。

「トリートメント流しますね」
再び響くシャワーの音でゆっくりと目を覚ます。
(あぁ、終わってしまう…)
最高の眠りについていたわたしの脳は、まだぼんやりしている。リクライニングシートを起こされて席に戻る間もあくびが止まらない。椅子の足につまずきながらようやく席に着くと、わたしにとっては第2の至福であり、高橋さんにとっては毎度の迷惑であろう、ドライヤータイムがはじまる。

勢いよく当てられる温風を遮るように髪を揺らす指。前髪を乾かしているときも、後ろから一気に乾かしているときも、誰かに頭を触られているときってどうしてこんなに気持ちがいいんだろう。
ふわふわとなびく洗いたての髪を感じながら、わたしは再び眠ろうとする。でもここはシャンプー台じゃない。首の座らない危なっかしい頭を支える高橋さんと眠り続けたいわたしの攻防は、簡単に決着がついてしまう。

「もう少し(で終わるから)、がんばってください…!」
高橋さんは、きょうもわたしも応援する。
カットの後、丁寧にブローしてくれる感触とサラサラの髪の毛が心地よく、懲りずにまた眠りそうになるわたしに、「家で寝て」と、本音を漏らす高橋さん。
お店を出るときに交わす挨拶は、いつの日からか「おやすみなさい」になっていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?