ルイ・ラヴェル『ナルシスの過ち』試訳(18)

6 互恵関係

私たちの行動を支配する最も深い欲望が、一緒に暮らしたい、あるいはもっと慎ましく自信のないときには、一緒に暮らすのに耐えられるだけの相手を見つけたいというものであったとしても、驚くにはあたらない。人間にとって、どうすれば他の人間とうまくやっていけるか、それ以外に問題はないことを私たちはよく知っているからだ。そして、人生のすべての不幸は、これを達成することの不可能性から生じるのである。
他の存在と自分との間に隔たりがあることを示す最も控えめな証拠があれば、私の内なる動きすべてを停止させるのに十分であり、それは私をそちらの方へ運んでいく動きだけでなく、私の思考が孤独の中でその固有の戯れに身を委ねるものでもある。自発的でなくても、意識的でなくても、ほんのわずかな交わりの兆しで、それだけで思考は蘇り、無限の精神的空間が目の前に広がるのだ。
しかし、自由を広げる場となり、深い喜びの源となることを期待し、受け入れるだけでなく、望み、愛していた他人の現前そのものが、かえって自分を締め付け、悲しませ、許容しがたくなることはよくあることだ。しかし、他者との対話に匹敵するような自分との対話を始めたとき、私たちは常に自分が何者であるかを許容できるわけではないことを忘れてはならない。というのも、私たちの内には、欲求に満ちた存在があり、その前では、いかなる個人も、私たちがそうであったとしても、恵みを見出すことはできないからである。しかし、忍耐の本義とは、自分自身の内でも外でも、個々の存在のあらゆる不幸に苦しむことを学ぶことであり、慈愛の本義とは、彼らを助けることを学ぶことである。
多くの人は、自分自身よりも他人に厳しいのは事実だ。そして、この自然の摂理を逆手に取ることが美徳とされているようだ。しかし、私たちの中にある自己は、私たち自身とは別の誰かでもあり、自分自身にやさしさを示さない者は、他の誰に対してもやさしさを示すことはない、ということを見落としてはならない。そして最悪なのは、それがごまかされてしまうことだ。
他人が自分に与える待遇に文句を言うのはおそらくは間違いだ。なぜならそれは常に自分が与えた待遇の影響でありイメージだから。しかし、もし私が十分に愛されていないことを悲しんでいるとしたら、それは私自身が十分な愛を感じていないからだ。自分の中にある受容の力が、他者に自分を受け入れてもらうのであって、他者が私を拒絶するのは、私が心の底ですでに他者を拒絶している場合だけなのだ。しかし、人間はこの互恵性から逃れるようにできている。自分に無関心な人から注目され、軽蔑する人から尊敬されようとするのである。しかし、あなたが他人を測ったのと同じ尺度が、あなたにも使われるのだ。
私は他人を非難することをやめない。彼らから逃れ、彼らを軽蔑し、もう知りたくないと思うふりをする。しかし、私は彼らなしではやっていくことはできない。私が彼らを軽蔑するのは、彼らを尊敬する欲望の徴に過ぎず、私が彼らに対して負うべき義務、つまり彼らが私の尊敬に値するように十分な愛を与えるべきであることを示しているのである。

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