芸術社会学者のナタリー・ハインリヒの論文を読んでいて、「現代アートと社会学は単なるオブジェ(対象・物体)だけではない様々なものを考慮に入れており、それもあって大衆から誤解や失望を受けるという点で共通している」みたいな話をしており、フランスも同じなんや!という気になる。
ある意見にめちゃくちゃ反論したくて「Twitterやってれば反論できるのにな〜」と思ったが、こんな気持ちでTwitterやっても炎上するだけなので、やってなくてよかった。
芸能人・有名人が本屋で本を選ぶ系のYouTubeをついつい見てしまうのだが、別にどういう本を選ぶか気になるわけではなく、人が本屋でしゃべってる時のいつもより落ち着いた声のトーンが好きなだけっぽい。
「自分がいなければ仕事が回らなくなるので休めない」などという考えは、正常な判断能力があれば「そんなわけない」とわかるはずなので、正常な判断能力を復活させるためにも休んだ方がいい。
お会いしたことのない人の中で、私がもっとも聞いた声は大山のぶ代であったと確信を持って言える。覚悟はしていたが、やはり悲しい。
作家が歳をとり、(若い頃にも存在していたであろう)ダメな部分がどんどん表に出てくるのはよくあることだが、年老いた作家の作品から遡行して「若いときからこれは一貫していたものだ」という風に語るのは、流石に結論ありきの批評すぎるなと思うときはある。私は最近その手の文章を読んでいないので、特定の何かを想定したものではなく、「こういうのはよくないな」という抽象論に過ぎないのだが……
『チェンソーマン』とかのサブカルチャーにおける「公安」のイメージというのは割と不思議で、実像から乖離して一人歩きしてる気もしており、『SPEC』あたりの影響なのかな?と思っていたのだが、その源としてサブカルチャーの「公安」イメージを作った作品としての『踊る大捜査線』はめちゃくちゃ重要だなあと。『踊る』の影響源に『仁義なき戦い』があることはスタッフも言っていることだが、ヤクザ映画における『仁義』くらい、刑事ドラマにとって『踊る』は重要な作品なのかもしれない。
6 Sim ut sum aut non sim. 最も高い義務、最も慎重を要する困難、最も重大な責任は、ありのままの自分でいること、すべての重荷と結果を引き受けることだ。率直さは、この勇気を与えてくれることで私を解放してくれる。私を縛るのは嘘だ。意識は私に自分自身を所有することを強いる。そして、この所有権の獲得は創造に似ている。というのも、それは可能な存在を実現することであり、いわば、その性質が私に引き渡されるからである。しかし、可能性の状態にとどまることは、存在すること
5 ギュゲスの指輪 私のありのままが、私が考えていることよりも、私が行っていることと一致しているなら、どうして誠実でないなどと言うことがあり得るだろうか、と言われるだろうか?そして、私がすることと私が示すことの間に隔たりがないとすれば、私が示すことと私が何であるかの間にどんな隔たりがあり得るだろうか? 騙したいだけの不誠実さは置いておこう。それは、十分な知覚力を持たない他人を欺くだけであって、自分自身を欺くことは決してない。 それは私が特定の結果を達成するために使用する一時
4. 欺くことの不可能性 人間関係においては、常に現実の存在に取って代わった見せかけの存在が形づくられる。これは自己の放棄と屈辱を前提としているが、不相応な裏工作がそれを覆い隠しているため、私たちはそれに十分には気づかない。なぜなら、私たちの現実の存在は、見せかけの存在に抱かれる誤解を未だ利用したいと思うからだ。 しかし、私が見せている外観が、私がこうであるという現実であるように受け止めてもらえると、私は本当に期待できるのであろうか?私の言葉のひとつひとつ、身振りのひとつ
インターネットの人たち、「なんか面白いことやりましょう」的なこと言う人たちを馬鹿にしがちだが、結局ずっとそういう話をしてる気がする。
プレイグスを聴いてる。 プレイグスは福田和也の文章を読んで知ったバンドだ。こんなことを言うのは今や大変ダサいことだが、中高生くらいの私は浅田彰と福田和也が勧めているものは出来る範囲でチェックしていたのだった。 そんな古い時代の話は惜いといても、福田氏の褒めてるものは面白いものが多かったと思う。私の価値観が変わっていないとも言えるが、批評家というものは理論や思想が残らなくても、「価値観」が残ればそれで充分かも知れない。プレイグスと全然関係ない話でごめん。
陰謀論を言うが、世界はユング化している。 まあ、うっすらスピってる人にはユングは昔から人気があるわけだが、MBTIのようにモロにユング類型論をベースにしてるものなどがビジネスにおいて意味を持ったりする一方で、しばしばユング的想像力に基づいた陰謀論が跋扈しているのは、ユング大活躍と評価せざるを得ない。 ところでユングの類型論はなぜ人気があるのか。類型論の反対は特性論で、今の心理学プロパーはビッグファイブによる性格特性論の方を学問的には評価すると思う。そのような風潮においてもMB
社会学における会話分析の出発点の一つに、サックスやシェグロフらによる自殺防止センターの会話分析があることは有名だと思う。 このような研究に基づいて、自殺防止センター用のAIを作ることはそんなに難しくなさそうだが、それは倫理的に問題があるのだろうか。しかし世の中、「これは人間じゃなきゃダメ」と思われてたこともどんどんAI化していってるのであるから、実際にやってみたら意外と良い感じになる可能性も捨てきれない。
羽賀研二、元芸能人なのに、薬物とかじゃなく詐欺を繰り返してるのがめちゃくちゃ普通の悪党っぽくて面白い。
どんな偉大な作家でも、長編小説というジャンルにおいて早熟な才能を発揮する人はそんなに多くないが、トーマス・マンが25歳で『ブッデンブローク家の人々』を書いてるのは脳がバグる。