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「ただのオタク」であることへの焦燥感と和解できそうな話

ただのオタク、二次創作をするオタクがいることを知る


大学に入って上京し、SNSを始めたあたりで二次創作を行うオタク、という存在を初めて認知した。
今思えば中学生の時にオカズにしていたガンダムS〇EDのエロCG+R18SSとか思いっきり二次創作そのものだったし、二次創作に触れて来なかったわけではなく、そういった作品が誰かの作った二次創作作品だ、という意識をしていなかっただけではあるのだけれど。


同年代のサークルの友人は東方にどっぷりで、そういったことへの造詣が自分よりも圧倒的に深かったし、自分自身コミケに初めて行ったこととかも「こんな世界があるのか!」と衝撃が大きかったと思う。


そういった世界や、そこで作品への情熱や理解を表現する人たちを見た際に感じたことは、「この人たちめちゃめちゃすげえ!」という尊敬と、「俺、オタクとして生産性がなくてダメなのでは・・・?」という疑念だった。作品を消費するだけのただのオタクな自分は、創作や表現活動をしている人達の下位互換、劣化版なのではみたいな考えが湧いた。


その後、自分としてもすごくハマったコンテンツができたので、そのコンテンツに入れ込んでいく中で動画、SS、イラストと二次創作的な作品表現に手を出した。キャラ考察、作品考察記事の作成みたいなことをやったこともある。あしかけ7年くらい色々手を出していたと思う。

コンテンツに入れ込む中で自分が二次創作に手を出したのは、自分の好きを表現してみたい、自分の好きなジャンルを知ってほしい・貢献したい、表現活動をしている人への憧れ、そして前述した疑念からくる焦燥感・罪悪感と、みたいなのがごちゃまぜになったような動機だったと思う。

作品数なんてたかが知れているので「やっていた」というのもおこがましいとは思うが、持ち前の三日坊主根性を発揮してやらなくなったものから、技術がないなりに多少続いたものもあった。(ちなみに考察ブログ記事みたいなのは割りと肌にあっていたなとは今でも思う。)

ただどうも、自分の中での違和感みたいなものはどの表現手段をとっても拭えないままだった。


色々と手を出してようやく自覚できたこと


何が自分の中で違和感になっているのか。まずは周りの創作をしている人と自分を比べてみた。

周りの創作をしている人たちは、作品から受け取ったエネルギーをガソリンに精製して表現をしているように自分からは見えていて、それはもう一種のライフワークとして生活の中に溶け込んでいるように見えた。10のエネルギーをそのまま10のガソリンにして稼動している感じ。


引き換え自分は、受け取ったエネルギーをガソリンに精製するのだけれど、精製過程でエネルギーの一部が失われてしまって総量が減ってしまっている気がした。10のエネルギーがガソリンに精製されたら5になってる感じ。自分の感受性のクソさが原因の可能性もあるけど、ここに引っ掛かりを覚えた。


そもそも二次創作活動って自分の「好き!」を表現したい、が動機の源泉だという人が大多数だと思う。周りの創作をしている人もそういう人が多く見えたのだけど、振り返ってみると自分はちょっと違っていたのかもしれない。「生産性のない、表現するもののないオタクのままでいるのは嫌だ、怖い」みたいなマイナスの動機が、「好きを表現したい!」といったプラスの動機よりも割合的に大きかったのかなと思う。

前述したように、自分は自分自身の動機がプラマイごっちゃまぜであることそのものには自覚的だったけど、動機のプラマイの割合を自覚できていなかったのが違和感の正体だったのかなと。そして割合の大きなマイナス動機が、作品からのエネルギーをガソリンに精製する際に何割かを虚空に持っていってしまっていたのかなと考えると、自分なりに腑に落ちたような気がした。

自覚的になった上であらためて考えると、自分がしたかったことは「二次創作や表現ができるオタクになること」ではなくて「他のオタクの下位互換なのでは」みたいな恐怖や焦りを解消することだったのかもしれない。

その恐怖や焦りを解消するために「二次創作や表現ができるオタクになること」は手段のひとつではあるので、よく巷で言われる「目的と手段が逆転していた」のではないか。
その上で別の手段を考えてみようとしてみたときに、そもそも自分にも10のエネルギーを10でガソリンにしているような体験が本当に今まで無かったのか思い返してみた。


自分にもあったもの


自分はヘタクソでも歌うのが好きだ。友人とのカラオケも好きだし、毎月必ずヒトカラに行っている。そんなカラオケ絡みで印象的な出来事があった。


以前「アンナチュラル」というドラマを一気見した。見る毎にどんどん惹きこまれて、毎話絶妙なタイミングで流れる主題歌の「Lemon」に心を動かされた。ドラマの内容にリンクした歌詞を聞くたびに胸を締め付けられて、曲を聴くたびにどんどん自分の中に感情のマグマがたまっていく。


ドラマを見終わって通勤中にLemonをエンドレスリピートするうちに、一度自分で歌ってドラマを見たり曲を聴いたりして抱いた感情を吐き出さないとこの先なんにも手につかない、みたいな状態になって感情のマグマがドカンと噴火した。歌が上手いも下手も放り投げてとにかく自分の感情を全部載せてカラオケでLemonを歌った。


この体験について友人に話したところ、「絵師がアニメ見て感情爆発させて絵をアップするのと同じじゃん」と言われた。


「これだ!!!」となった。


自分にとって、作品から受け取ったエネルギーをそのままガソリンにして何かを表現できるのは、「歌うこと」なのではないかと思い始めた。思い返すとCLANNAD見終わったあとにアホほど「時を刻む唄」を歌ってたりとか、サヨナラノツバサを見た後に「放課後オーバーフロウ」をデンモクで入れまくったりとか、今までやってたなと。


そう思ったときに更に気づいたことが、「表現すること=形に残るもの」ではないということだ。自分の歌を録音する気は無いので歌うことなんてその場きりのものだけど、確かに表現として成立はしている。

今まで自分はなにか形に残るものじゃなければいけないと勝手に範囲を狭めてしまっていたのではないか。出力方法と、形に残るか否かの違いだけで、自覚せずに同じようなことをやっていたんだなと思い至った。


これまでよりかは気楽に生きていけそう


7年掛かってるとあらためて考えるとずいぶん遠回りしてるなあと思うが、すごくすっきりした。


なによりこれまでチャレンジしたことが無駄だったとは思わない。動機の割合はマイナス動機が勝っていたかもしれないが、負けないくらいにプラスの動機もある中でアウトプットしたものだ。このキャラを知ってほしいとか、こういうシチュエーション最高とか、この作品はすごいぞとか、その愛とか熱量は間違いなく本物だったと今でも言える。


あと自分が体験したことで、そうした表現活動をしている人たちの凄さを垣間見るというか、浅瀬でチャプチャプしているなりに実感できたことはとても良かったと思う。

どうしたら動画がよりカッコよくなるか、文字だけでどうやってキャラらしさを表現するか、絵を描く・色を塗る技術とツールを使える技術の組み合わせでイラストができていることとか、自分でやってみないと分からなかった部分は多かったと思う。表現をしている人、続けている人への尊敬は以前よりもずっと深くなった気がする。


今後の人付き合いとかにもきっと活きると思うので、そういう経験ができたなら中華液タブの2万ちょいくらいは安い投資だったのかなと思う。
それに今後もそういった表現方法を取らないと決めているわけでもないので、下手でも一度やったことあるってのは心理的なハードルが下がりそうだし。


最後に


SNSで表現をしている人たちに簡単にアクセスできるからこそ、自分みたいに「生産をしないオタク」であることに恐怖とか焦りを感じる人って結構いるのではないかと思う。


こういう話をすると、「気にしすぎでしょ」とか「表現方法は人それぞれで、自分なりでいいじゃん」「表現をする、しないでオタクに上下関係はないよ」といった話をされる。まったくもってその通りだと思う。でも、それは理解はできるけどイマイチ納得しかねる、みたいな状態で自分の中に落ちてこない。少なくとも自分はそうだった。


最終的に必要なのは「自分が納得できる理屈」なんだと思う。自分にとっては「実は似たようなことやってた」だったけど、「同じように創作活動をする」が納得する理屈に繋がる人もいれば、「気にしすぎ」に自分なりの納得する理屈をみつける人もいると思う。


というわけで自分なりの整理と、同じようなことで色々考えちゃっている人へ、自分が今まで無自覚でやっていたことがその糸口になるかも、という話でした。納得の一助に繋がれば幸いです。

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