一期一絵 大久野島灯台に関する聞き書き 

 中山加代子さん=1915(大正4)年生まれ=に聞いた。

大久野島灯台

 父は倉田伊代吉といいます。昭和12年、勝浦で灯台守を退官しました。大久野島灯台の前は伊江島、その前は沖縄で、伊江島の時、小学校1年でした。尋常小学校5年の時、忠海に来ました。島に官舎があったのですが、最初は本土側の忠海に家を借りていました。兵器製造所が出来るというところでした。小学校、忠海高女に通いましたが、途中から島の灯台のそばにある官舎(退息所)に住みました。

 本土から兵器製造所にたくさんの工員さんが船で通って来られました。灯台の船もあったのですが特別、便宜を図ってもらったのでしょうか。製造所の船によく乗せてもらっていました。船は兵器製造所の桟橋を使っていました。

 製造所のことは秘密の兵器、戦争で使う日本で初めての兵器と聞いていましたが、毒ガスというのは知りませんでした。事務所が真ん中にあり、灯台との敷地とは鉄条網で仕切られました。島は製造所が出来てすっかり変わりました。山にウサギがいて、山ツツジがいっぱい咲いたのどかな島でした。海でタコをわしづかみにして捕った思い出もあります。昭和8年に忠海高女を卒業しました。私自身は忠海に10年間いました。

 灯台の暮らしはのどかでした。父が灯台長で、部下と2世帯が官舎に住んでいました。小使い(用弁)さんがいて、風呂を沸かすなどの雑用をしてくれました。

灯台の灯りを守る仕事のほかに気象月報、潮流、いくつかの浮標の保守点検もあったようです。

 敷地内に井戸がありました。どの灯台もそうでしたが、ここにも天水を溜めるコンクリート製のタンクがあり、モダンな大きな形でした。生水は一切飲まず、ここで蒸留、精製したものを飲んでいました。(東京在住、1998年聞き書き)

大久野島灯台

 村上初一さん=1925(大正14)年生まれ=は元毒ガス資料館館長でした。話を聞きました。
 有刺鉄線で灯台用地と毒ガス製造所はしっかり分けられていました。灯台用地は独立し、灯台のすぐ下に独自の係船場がありました。島の南端の一角、つまり灯台部分は愛媛県という誤った説がありました。灯台は大三島(愛媛県)側の宮浦で管理したんじゃあなかったか。それでそんな説になったのかも知れん。

 「陸軍所轄地」という石柱があるはず。「所轄地」という表記は明治中期(※灯台は明治27年初点)。「陸軍用地」は大正、後には「陸軍省」となるはず。

 昭和19年ごろ、灯台の官舎にもよく行った。木造平屋で部屋はいくつもあり、伝声管があった。忠海高女に通う娘さんがいて、製造所の技師が乗る通船に特別に乗っていた。私が昭和15年4月に高小(いまの中2)を出たころの話だ。

 大久野島沖は水深65メートルあり、巡洋艦も頻繁に行き交う重要航路。灯台も重要な役割を担っていた。(竹原市、1993年12月聞き書き)

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