日記 24.1.24(水)

24.1.24(水)

近所に”矢作”、”矢作”、”矢作”、”チラシ禁”、”チラシ禁”と印字されたシールの貼られたポストが掛かっていた。正確にはシールの下に擦れがかった油性マジックで”チラ禁”とも書かれていた。ポストは真正掛かっていたのであって、到底設置されているとは言えないような、頼りない拵えだった。
皆、ギリギリで生きている。と俺は思った。しかしこれは傲慢であり、かつ偏見である。その家は駅前の繁華街に繋がる大きな道のすぐそばの、脇道に面して建っていた。このような立地だと生活を混迷させる程のチラシが投函される可能性もあるかもしれない。俺にそれを疑うことはできない。矢作氏は心の底からチラシに悩み、投函者にシグナルを送っている。買いたくないものが羅列された意味のない紙束。請求書。近頃の人は手紙を書かない。俺も近頃の人だ。そのような生活を、ギリギリで生きているなどという一文で切り分けてしまうことは、俺が矢作氏ならば、断じて許せないだろう。
俺はふと、矢作氏と友人になれるだろうか?と考えた。矢作氏の生活と混迷に俺は僅かばかりでも寄り添いたかった。その本心を、友人になれるだろうかという問いはよく現せているような気がした。しかし。と俺は妄想した。この考えに従い自分に接してこようとする俺は、矢作氏にとって生活における、治安上の、地域社会の、脅威。不審者に他ならないのではないかと。友愛的な俺に当惑する矢作氏の姿が浮かんだ。俺の薄ら笑いに慄いている。そのうちおかしみが込み上げて、体の中が少し浮き上がるような気がした。自分の傲慢さは無視した。俺は駅に着いた。今日は仕事に行かなければならない。


午前から役員が前期実績と今期目標を全社員に向け発表するという会が行われた。前向きなフレーズが連発され、会社が成長していることと、成長し続けなければならないことが訴えかけられていた。他部署の事業部長は毎日が勝負だとしきりに唱えていた。俺は勝負などと思わずにただ日々やるべきことをやるということを繰り返すだけではないか、と思った。きっと、それが既に勝負なのだと言い返されるのであろう。
そんなことを考えている内にこの会が急に何かの儀式のように思えてきた。実際そうだろう。既に役員間では発表内容において唯一意味を持つ数字の部分が周知および確認されているのだろうし、後はその数字に従って、各々の職責にそぐう粒度で切り分けられた作業が目の前に降りてくるだけだ。そしてその内の一部をまた切り分けて、次の誰かに渡す。この会は発表内容の仔細を確認し、理解するという実際的な仕事の場ではない。可能な限り回り続ける事業の渦中に身を投じる一体感のデモンストレーションなのだ。資本主義イニシエーションだ。サラリーマンは会社の仲間とみんなで踊るのが仕事だということだ。勝負中毒者達の勝負音頭を頭の中でかき鳴らしながら。
心の中にダウナーなバイブスを感じた。もうすぐ昼飯である。


まいばすけっとというスーパーがある。都市型小型スーパーというので、コンビニより少し大きい程度の売り場面積しかない。スーパーなのに小さいのだ。もしかしたら大きなまいばすけっともあるのかも知れないが、俺はそれを知らない。
俺はかねてより、まいばすけっとに消費の喜びはないと考えていた。ここには見たことのないものや、見たことのあるものが見たことのないような値段で売っているなどということはない。見たことのあるものが見たことのある値段で売ってあるだけなのだ。もしこの世に大きなまいばすけっとがあったとして、多分そこには見たことのあるものだけが見たことのある値段で大量に陳列されているだけだろう。嫌いだ、まいばすけっとが。
昼飯はまいばすけっとで俵むすびが4つ入った小さな弁当を買った。ただ安いからだ。


午後のことは忘れた。これは嘘で本当は覚えているが、考えると午前の繰り返しのようになるので思考を廃して過ごしていた。時々、家を探した。束の間の現実逃避のためである。
仕事を終えて帰路に着く。駅で家人に連絡したら寝ていたようで、スパゲッティを買ってくるよう頼まれた。
ライフには大抵見たことのあるものばかりが売ってあったが、揚げる直前の生のからあげ、巨大な麩、パスチャライズ牛乳など見たことのないものも売ってあった。俺は生来スーパーが好きなのだ。多分、広くて物が沢山あってたまに見たことのないものがあるからだと思う。大抵のものが生活を脅かさない範囲で買えるから、という可能性もあるが、それはあまりにも、生活すぎる。覚えている限りで最も古い記憶の中でもてかんていたーに居た。生活センターのことだ。
帰りは豪邸ばかり建っている筋を通って帰った。なぜこんなところに豪邸が集まって建っているのだろうか。矢作氏の家はどこだっただろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?