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答えの出る問いを設定する

最近、自問自答する一つのテーマとして、「答えの出る問いに本当になっているか」というものがある。これをテーマに今回少し考えを整理してみたいと思う。

最初に重要となる部分を抽出しておく。

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  1. 答えの出る問いを優先し、暫定的であることをわきまえる

  2. 経験的に対応しているかどうか、データにアクセスできるか

  3. 問いを工夫する(ブレイクダウン、範囲、使用する枠組みへの責任)

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答えの出る問いを優先し、暫定的であることをわきまえる

情報生産者が立てる問いは、第一に答えの出る問いです。そして答えはつねに暫定的なもので、いずれ新しい答えに置き換わっていくことでしょう。それを学問の発展と呼ぶのですけれど。そしてすでに先行研究があるにもかかわらず、あなたが新しい問いを立てるのは、これまでの答えに、あなたが飽き足りないからです。

上野千鶴子『情報生産者になる』

暫定的であるからこそ新しいものに置き換わっていく。そして、新しい問いを立てるとしたら、立てる人がそれまでの答えに飽き足りないからである。

イシュー見極めにおける理想は、若き日の利根川のように、誰もが「答えを出すべきだ」と感じていても「手がつけようがない」と思っている問題に対し、「自分の手法ならば答えを出せる」と感じる「死角的なイシュー」を発見することだ。世の中の人が何と言おうと、自分だけがもつ視点で答えを出せる可能性がないか、そういう気持ちを常にもっておくべきだ。

安宅和人『イシューからはじめよ』

安宅さんの言葉で言えばイシューの「死角」部分を自分が発見できているかどうかが重要である。他の人が何と言おうと、自分だけがもつ視点で答えを出せるかどうかを信じれるかどうかが鍵を握る。


以下の2つは、ある程度、最低条件とも言えるかもしれない。
経験的に対応しなければ、「問いを立てただけで終わり」という状態になりかねない。

経験的対応物(empirical referent)のある概念か

問いには、答えの出ない問いと答えの出る問いがあります。(中略)経験科学としての社会科学は、経験的対応物(empirical referent)のない概念(神や霊魂)を扱わないことで、形而上学と一線を画します。また「人生に生きる意味はあるか?」という問いは、立てた人にとっては切実かもしれませんが、ついに答えの出ない問いでしょう。社会科学者ならこの問いを文脈化(contextualize)して、「どんな時に人は生きる意味を感じるか?」という問いに立て替えるようにします。これなら、答えることができます。

上野千鶴子『情報生産者になる』

例えば、形而上学的な概念を取り扱ってしまうと、それは経験科学では太刀打ちできないものになってしまう。形而上学的なものとは、その当人が構築した世界のようなものであり、その中で完結してしまう。それを解消する手立てとして、上野先生は「文脈化」して問いを立て替えることを提案している。歴史社会学や言説分析はこの分類に入るだろう。


データへのアクセスがあるかどうか

データにアクセスがあるかないかも、問いを立てるには重要なポイントです。たとえばいくら死刑囚の心理を知りたい、と思っても、刑務所の中に入ってインタビューすることはできません。

上野千鶴子『情報生産者になる』

問いを立てられたとしても、それを検証する、サポートするようなデータにアクセスできないのだとしたら、経験科学としての意味をもたなくなってしまう。現実的な可能性(フィージビリティ)についても一緒に考えておかなくてはいけない。

ということで、「よいイシューの条件」の3つめは、イシューだと考えるテーマが「本当に既存の手法、あるいは現在着手し得るアプローチで答えを出せるかどうか」を見極めることだ。「現在ある手法・やり方の工夫で、その問いに求めるレベルの答えを出せるのか」。イシューの候補が見えてきた段階では、そうした視点で再度見直してみることが肝要だ。

安宅和人『イシューからはじめよ』

ここでの安宅さんのコメントも同様のものだと言える。立てている「方法」で、本当に問いに対して答えが出せるのかどうかを検討する。


では、問いそのものをどのように設定すると良いのか。
以下の3つでは、設定における工夫を述べている。

問いをブレイクダウンする

大きな最初の問いをブレイクダウンする。つまりは、抽象度を少し下げて、その上でサブクエスチョンに論理的に分けていき、そのサブクエスチョンにひとつずつ答えていくと、最初の大きな抽象的・全体的な問いに答えることが可能になる。(中略)今指摘があったように、抽象的な問いにいかにして具体的な例を提示し、もう少し根拠のある答えを出すか。最初の問いのままだと、問いにうまく答えられないから、それをどうやって答えやすくするかが重要なわけです。こういった作業は大きな問いに答える際には、必須の考え方です。

苅谷剛彦・石澤麻子『教え学ぶ技術 ─問いをいかに編集するのか』

苅谷先生は、最初の問いが大きなものであるため、それをいくつかの小さな問いにブレイクダウンすることを勧めている。サブクエスチョンに論理的に分け、それぞれに答えを出し、その小さな答えを結びつけると大きな問いに答えられるという構造を作ることだ。

このことは、博士論文のリサーチ・クエスチョンの構造でも似たようなことが言われる。以下の中原先生のブログでは、「博士論文=構造を書くこと」ということが示されている。そして、このことが博士論文を書くことで一番の難所になるとも書かれている。「One paper, One research question, One conclusion」になるように構造を作らなければならない。


ただし、その時はただ小分けするだけじゃなく、分けること自体がどういうふうに論理的につながっているかということを意識しないといけません。この論理のつながりを考えるということも、考える力を鍛えるときの鍵となる部分です。

苅谷剛彦・石澤麻子『教え学ぶ技術 ─問いをいかに編集するのか』

ここでの中原先生の「構造」は、苅谷先生の述べている「論理的につながっているか」というところと同義として捉えて問題ないだろう。こういった「論理のつながり」を考えることが、考える力の鍛錬になっていく。


議論を限定して範囲を定める

議論を限定することで話を広げすぎない。(中略)限定的に出すことも一緒に考えたほうがいいでしょう。(中略)ここでは「ここまでは議論するけどここからは議論しない」ということをはっきりさせることが大事です。それがないから、ここはちょっとつながりが悪い感じがするんですよ。

苅谷剛彦・石澤麻子『教え学ぶ技術 ─問いをいかに編集するのか』

これは意外と抜け落ちやすい点だが、「どこまで述べるか」を自分なりにコントロールする必要がある。よく「射程」という言葉が学術論文では登場することがある。その言葉が意味するのは、自分で「線を引く」ということである。例えば、絵を描いてみて、ここは当てはまるけど、ここからは当てはまらないといった整理をやってみてもよいかもしれない。

このエッセイの中でクエスチョンにどう答えるかということを中心とし、答えられる範囲をちゃんと限定して書いたほうがいい。「答えられないことについては限定的だから、ここでは展開できない」と書けばいいんだから。

苅谷剛彦・石澤麻子『教え学ぶ技術 ─問いをいかに編集するのか』

仮に答えられない範囲がわかっているのであれば、そのことを論文の限界を示すところで書いておけば良い。あるいはイントロ部分で焦点を当てる範囲を書いておいてもよい。


自分で用意した枠組みには責任を持って応える

この最後のところはいろんな可能性が開かれた議論なんだけど、自分でその枠組みをつくった以上は責任を取らなきゃいけない。といってもそこまで難しく考えなくても、そこまで議論を展開するのが難しいと判断したら、最初のところの「受けた後の段階」という表現を変えることも可能です。(中略)エッセイ・クエスチョンにたいしてどう答えるかということについて自分で枠組みをつくり、論じていくのは良かったんだけど、その枠組みを表現する言葉・概念をどう解釈するかによっては後で論じにくくなっちゃうことはよくあります。だから最後に「難しいな」と思ったところでもう一回確認してもよかった。そうすると枠組みを語る言葉の表現の仕方が変わってくる。

苅谷剛彦・石澤麻子『教え学ぶ技術 ─問いをいかに編集するのか』

概念や理論の枠組みについては、なかなか書いてみないとフィットするかどうかがわからないこともあって、たくさん論文などを読んだものの、その枠組みが使えないということを後から気づくこともある。そういうことがあるため、使った枠組みに責任を持てるかどうかを自己検証しておいた方が良い。博士論文の議論では、「お勉強ノート」という皮肉も込めた批判がよく出てくる。そのようなお勉強になっていないかどうかを自分で確かめておく上でも、ここで書いてあることは活きてくるだろう。


改めて、今回のまとめを最後に載せておく。
博士論文や査読論文を書く際に、自分の中で確認用に使っていきたい。

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  1. 答えの出る問いを優先し、暫定的であることをわきまえる

  2. 経験的に対応しているかどうか、データにアクセスできるか

  3. 問いの工夫(ブレイクダウン、範囲、使用する枠組みへの責任)

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