今だからこそ「Two Tribes」「War」「Gimme Shelter」を考える

1984年にこんな曲が出た。

当時は未だ米ソ冷戦のまっただ中。

この曲は、そんな米ソ冷戦が行き着く先に起きるであろうと懸念されていた核戦争への恐れを示した曲、と解釈されている。

冒頭のビデオクリップはその象徴と言えるだろう。

当時のアメリカ合衆国大統領であるロナルド・レーガン。そしてソビエト連邦書記長のコンスタンティン・チェルネンコ。
この連中がストリートファイト紛いのことを行う。外野はそれに大金を賭けて煽りまくる。煽りの中心にいるのが、ホリー・ジョンソン扮する司会者である。
これを1984年に問うた。

歌詞にはレーガンについて明示的に言及した、とされる部分もあり、それだけを訊くと一方的批判のように思えるが、明示的批判こそないもののソ連に関しても暗示している部分がある。


今、この曲を発表する場合、曲の歌詞には幾分のアレンジは必要かもしれないが、基本的にはそこまでの変更は必要ないかもしれない。
また、ビデオクリップを作る場合、一方はプーチンであろうし、もう一方はウクライナのゼレンスキー大統領ではないかと思う。
作る人間の意向にもよるが、プーチンが圧勝しかかったところでラストに差し掛かり、地球が爆発するエンディングとなるかもしれない。

そしてこの一部始終で、嬉々として煽り立てようとするホリー・ジョンソンの役回りを誰がやるだろうか。

日本ではこんな楽曲であるとかビデオクリップなど、間違っても作ろうって野心家はいないと思うけれど、海外にはこういうのを作ろうという頭のいかれたヤツがいるんじゃないか。

1984年当時でさえいたんだから、2022年現在でも下手をするとこの世界にも一人や二人はそんな、頭のいかれたヤツはいるだろう。


曲は訴える。

二つの部族が争いを始めるのだ、と。

二つの部族は、たった1ポイントのために、大義を掲げてしようもない争いを始めるんだろう。
その背後で泣くのは、決まって無辜の人々だ。為政者ではない。もちろん、外野で煽り立てているような連中でもない。

その上で言うが、現在のウクライナを巡る情勢に於いて、ウクライナにはウクライナとしての言い分が当然あるだろうし、ロシアにもロシアなりの言い分があるとは思う。
だが、それらにどれだけの理があるのか、その部分を判断するのはロシアでなく、ロシアやウクライナという当事国を除く世界だ。

確かに戦争は醜い。私は幸いにして経験したことはないが、経験した人たちにとっては辛く耐えがたいものであろうことは容易に想像できる。

挙げ句、斯様な嘆きを紡ぐしかなくなる。

エドウィン・スターのその名も「War」という楽曲は、恐らくどんな反戦歌よりも正直であり続けるだろう。
ジョン・レノンの「Imagine」や「Give Peace a Chance」などよりも。

「戦争を止めましょう」的な呼びかけではなく、「うるせえおまえら!今すぐ戦争なんか止めろって言ってんだろ!」と怒鳴り倒すみたいなものだ。
この迫力と大真面目さの前に、誰が囃し立てられようものか。


我々は、それが良いことか悪いことかは別としても、画面の向こう側の世界でしか、戦争を知らない。いや、もっと正しい言い方をするなら、それしか知る術がない、と言うべきかもしれない。

その上で「ウクライナでさえ、あんなことになる。明日は我が身だから、ボチボチそういう心構えをしておいた方が良いよ」と警句を発しても、誰も聞いてはくれないだろう。私もすぐには聞く耳を持たないかもしれない。

でもね。

戦争ってものは、案外近いところに、いるかもしれないなあ、とは漠然とだけど思ってる。
戦争なんて、私らの知らないうちに、足音も立てないままに、こっそり近づいてきて悪魔の囁きをして逃げちまうかもしれない。

ほんの1ショットの先で。


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