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サッカー評論に於いて「書斎派」は成立するか?

競馬評論家には「書斎派」というジャンルがあるらしい。このカテゴリの中で非常によく知られるのが、あの大橋巨泉という人だ。
彼は、「プロの調教師が競馬に使ってくるほどなのだから、八分以上の出来である」という信念の下、その予想は、出走各馬の調教を観ないで行ったという。

競馬評論で「書斎派」というものが成立するならば、サッカー評論にも同じように「書斎派」は成立するんじゃないか。

実際のプレーを観なくても、スコアの推移やテキスト速報、更には事細かなスタッツの羅列などで、ごく大まかな推測は成り立つかもしれない。

但し、これらの最大とも言える弱点は、「テクニカルなエビデンスが極めて乏しいとみられること」ではなかろうか。その意味で、ハンデを抱えながら論を展開していこうとする。
よほど、語る側に「確固たる根拠」がなければ、何処までも説得力を有することなく終わってしまうだろう。

最近は戦術解析派が多数いて、それぞれの知見に基づいて、見解や論理を披講してみせる。
こうした人々の論は総じて説得力に長け、理路整然としている(ように見える)ことが多いと思われる。文章力や説得力に乏しい私からすれば、非常に羨ましいことだ、と思う。

私は特に、そこに出て来る戦術用語などは、まるで意味をわかっていないことが多い。そのために、理解がほとんど怪しく、故に大抵要らぬ方向に進んでしまい、しようもない恥を掻く。
よく言われる「ポジショナルプレー」にしたって、「何じゃそれ?旨いんかい?」ぐらいのノリで片付けようとする。

いくら「書斎派」「無頼派」を気取ってみたところで、ベースにある根拠が弱くては意味がない。
競馬評論界きっての「書斎派」とされた大橋巨泉という人は、この根拠が強かったのだろうと思われる。そうでなければ、競馬評論の世界でも名を成したりは出来ないだろう。

彼が作ったとされる競馬界の箴言がいくつか存在する。

府中の千八、展開いらず
競馬は所詮いい加減なもの

前者は特に有名で、今でも引き合いに出すファンがいるように思う。

たぶん、サッカーの世界でも、こういうのに類する、信頼と実績を有する箴言を生み出すことが出来るなら、書斎派として名を成すことは可能なのではないか。

競馬評論に於ける「書斎派」が、「出走馬の調教を見ることなく予想するタイプの人々」と定義づけることと仮にするとしよう。
ならば、サッカーでそれに該当するのは、「チームとしてオープンにされている練習や情報等を見ないで予想をする人々」かもしれない。
それは、字面だけを見れば、非常に無謀なことだと言えるだろう。事前に知りうるデータを採り入れることなく、展開予想をしたりはしづらい。

しかし、競馬評論に於ける書斎派だって、あくまでも「調教を見ない」だけなのであって、彼らなりの根拠となる騎手や厩舎などの傾向を熟知してはいるはず。
サッカー評論に同様のタイプがいるとしても、あくまでも「練習を見ない」というだけで、選手のタイプ、指導者の傾向、などの「根拠」は当然持っていなければ、評論たり得ないかもしれない。

このように、サッカー評論に於いて「書斎派」が成り立つためには……

その人自身が幅広くサッカーについて見聞きするなどして築いてきたであろう知見を持ち、それによって他者にも説得力を持つような、確固たる「根拠」を持つことが大切だろう。

それがないことには、空論になりかねない。

例えば競馬に於ける大橋巨泉だって、ただ偉そうに持論をぶっているわけではなく、それ相応の根拠を背景にしているからこそ、その論が説得力を持つのだろうと思う。

この確固たる「根拠」をベースにしないと、ただの「こたつ評論」になりかねない。
難しいものだと思う。

ただ、サッカー評論でも「書斎派」は成立しそうだし、生きていく道もあると感じる。
その生きていく道、というのは、「書斎派」であるために知見の獲得やそのための努力を絶え間なくできる人となる、ということに尽きると思う。
やはり、何も努力無くして「天賦の才」のみに依存して、そのジャンルを確立することなど不可能だと思わざるを得ない。

先程来引き合いに出している大橋巨泉という人は、押しの強いキャラクターであり博識である一方、知識を獲得したいと欲する向上心が我々凡人以上のレベルにある人、という印象がある。
それぐらいの人間にならないと、「書斎派」を自任できるようにはなれないのではないか。

我々がただの「こたつ評論家」にならずに、「書斎派評論家」を自任するためには、意欲的に必要な知見を習得し、自身の「論」に対するバックグラウンドを確立できることが最も大切かもしれない。

自分のように「中途半端な知識でテキトーなことを言い散らかす」だけのことでは、到底「書斎派」を気取ることは困難であり、やはりそこには幅広い知見の裏付けがなければいけないだろう。
この歳になって、自分の底の浅さが改めてよくわかるし、故にこれからを背負って立つ若い人たちには、くれぐれも知見の獲得を怠りなきよう、と申し上げるしかない。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。