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10年前の自分への手紙を書こう、と思った

冬、ネオンが輝きクリスマスのライトアップがまぶしい夜の大阪。
心斎橋で、タクシーに乗った。
後部座席に案内した男性が、助手席に座ったぼくに聞いた。

「『カメラを止めるな!』の、森田さんなりの良かったところを教えてほしいです」

その男性、上田慎一郎監督に、ぼくはツバを大きくごくんと飲みこんでからとっさにこう答えた。

「全てが丁寧なところです。観客を突き放さず、ちゃんと楽しいところへ連れていってくれる。盛り上げ、映画館で映画を観るっていいなという気分にさせてくれる。それが一番好きなところです」

その答えは、監督を満足させただろうか。

これから書くのは、人生がえらく曲がって、えらいとこまで来てしまった、という話だ。
大学に8年も在籍していた不良学生であり、小さな広告代理店の不良社員であり、そのあともしばらくは金にもならないウェブサイトを立ち上げてグジグジしていた奴が、今をときめく『カメラを止めるな!』の上田慎一郎監督と同じタクシーに乗った、というだけの話だ。

不良学生のとき、100円レンタルで旧作を見まくったのが、映画との本格的な出会いだった。
そのときは生活費のためもあって、バーでバーテンダーのアルバイトをした。
このときたくさん観た映画と、バーでのアルバイトで、ぼくの人生はずいぶんと救われたのだが、それは今回はさておく。

人生が最初に大きく動いたのは、そのあとだ。
広告代理店に勤めながら、バーテンダー時代に知り合った友人が通う映画の専門学校(夜間部)に、発表のあてもないのに取材依頼をしたのだ。
そして一年間ずっと、休みを返上して、夜間の授業と土日の映画撮影に付き合い続けたのだ。

彼らが卒業するとき、映像チームを立ち上げるというので、誘われてプロデュースをやることになった。
その一環で、フリーペーパーを作った。フリペが人気の時代だったから、映像チームの宣伝にもなるだろうと映画情報の冊子を企画した。
同様のフリーペーパーがモノクロの印刷物だったのに比べて、何を思ったか、僕がぶち上げたのは、「32ページ・フルカラー」だった。その記事のために、「なら国際映画祭」を準備中の河瀨直美監督に突撃で取材を申し込み、インタビューした。

そのあとは新聞社で働きながら、インターネットニュース「みんなの経済新聞」でも記事を書くようになった。「みんなの経済新聞」のスタイルを見て、映画のフリーペーパーを次の段階、つまりウェブに移行させようと思った。
そして突貫作業のすえ、いまのキネプレを創刊した。
それが、2012年5月のことだ。いまから6年前だ。

創刊してからは、取材・執筆の毎日だった。フリーペーパーの場合は入稿してしまえばいったん区切りがつくが、ネットは休んではいられない。
最初の3年間で、1000本以上の記事を書いて配信した。森達也、塚本晋也、石井岳龍、若松孝二、想田和弘、犬童一心……。様々な映画監督にインタビューをした。
インタビューの方法なんて、誰からも学んでいない。河瀨直美監督以来、ずっと独学で、すべてやりながら学んでいった。
途中で、イベントや企画も多数こなすようになった。キネプレの20万アクセスを祝うイベントをやったり、上映企画を手配したりしていった。派生して、ミニシアターの女性支配人に集合してもらった「映画館女子ガールズトーク」なんてのも生まれ、ロフトプラスワン・ウエストの会場を毎度満席にしたりした。

最近は、新たなステップにも進んだ。映画の宣伝を手伝うようになったし、今年からは、短編映画の配給もスタートした。
いままでの経験を伝えて映画人を養成する講座も始めた。さらには、ブックカフェバー「ワイルドバンチ」の店長にもなった。

ただの一個人がはじめたサイトが、多くのアクセスを集め、映画業界のいろんな方と連携させていただき、イベントや企画までたくさんできるようになったのだ。
でも最初は全く儲からなかったな。
お金が少しずつ入り始めたのは、2年を過ぎたころからかなと思う。徐々にではあるが、ビジネスにもなっていった。
だけど、もともと個人レベルでスタートしたときの性質は色濃く残っている。
やりたい、面白そう、と思うことだけをやる。
そうでないと、こんなふうに、先達がいない道を歩いて来た意味がない。

森田和幸、というたんなる無名の個人だった存在が、6年前から、睡眠時間も遊ぶ時間も削り、毎日ひいひい言いながら記事を書きあげていた。
そんなサイトが、気づいたら、映画の宣伝・配給・イベント・企画・取材・講座運営・そして場所の運営など、映画にまつわる様々なことに取り組むことができる存在になっていった。
それは、一緒に何かをしてくれる人たちのおかげだし、キネプレを気に入って読んでくれている読者たちのおかげでもある。

いちおうカッコつけて書いておくと、やれる幅を広げることはずっと意識していた。
「キネプレ」は「映画(キネマ)のプレス(報道)」という意味だが、「プレ」はそれだけじゃなくて「プレイス(場所)」「プレイ(遊び)」「プレゼント(贈り物)」の意味を最初から込めていた。この6年は、それをひとつずつ実現していく歩みだった。

そんな中で、幸運にも出会えた映画業界の人たちのうちの何人かをここに記したい。
ほかにももちろんたくさんの人と出会えたけど、絞らせていただく。

野村雅夫さん。
FM802のDJをしながら、代表を務める京都ドーナッツクラブでイタリア映画の翻訳・配給などを手がけている英才。
最初はあるイタリア映画の取材でお会いした。その後も、イタリア映画特集やドーナッツクラブの拠点開設についてのインタビューなどでよく話すようになった。
気づいたら、キネプレでの連載や、イベントの司会をお願いするようになっていた。
そんな野村さんとは、実は大学時代に同じ街でニアミスをしていたらしい。これは半分本気だが、もしその時野村さんと出会っていたら、ぼくは喜んでドーナッツクラブの活動に身を投じていた気がする。

武部好伸さん。
元読売新聞の記者で、ウィスキーと映画、そして大阪をテーマにしたエッセイを書き続けている文筆人。
軽妙洒脱なお話と、その裏に蓄えられている膨大な知識、そしていつでも精力的なその姿に、いつも元気をもらっていた。
なにより、大学も一緒、新聞社・映画・お酒というのも一緒、という、ぼくのすべての大先輩な存在に、ぼくはずっとあこがれていたし、だからこそ、「じゃあ自分は何ができるんだろう」とずっと考え続けることができた。

戸村文彦さん。
塚口サンサン劇場の担当者。マサラなどのイベント上映や、特集企画、SNSの運用などを独自のアイディアと手法で走り続ける、関西映画業界の無二の逸材。
戸村さんは、キネプレの取材を繰り返すうちに、思いを共有するようになった。マサラやイベント上映のような華やかさの影に隠れた、戸村流とも言える劇場運営術に惚れこんた。
余談だが、サンサン劇場のマサラ上映の認知拡大は、最初の一翼をキネプレの記事が担った、と自負している。

増山実さん。
小説家で、「ビーバップハイヒール」「探偵ナイトスクープ」などの構成を手がけた才人。塚口サンサン劇場を取材した映画館がテーマの小説「波の上のキネマ」を読み、ワイルドバンチでイベントをしてもらった。
その現実への緻密なアプローチと、それを情感豊かに描く筆致がぼくの琴線に触れた。聞いてみると、好きな著者として沢木耕太郎の名前が出てきた。ぼくが一番好きなルポライターだ。沢木耕太郎のおかげで僕の人生は大きく変わってしまったのを思い出した。

田中泰延さん。
電通を退職し、「青年失業家」として映画などの文章を書いたり、イベントに登壇されたり、と独自の立ち位置で多くの人に愛されている巨人。
最初は『恋するミナミ』という映画の取材でお会いした。その翌年、『ラ・ラ・ランド』への田中さんの絶賛を見て、同じく絶賛していたマンガ家かっぴーさんとのトークイベントを相談した。司会は野村雅夫さんにお願いし、野村さんとの人気トーク企画「ヒロノブ・マチャオの しっかし映画ぎょうさん観たで」も生まれた。パワポを自在に使いこなしながらお客さんを引き込んでいく話術と、作品への愛と下調べに満ちた評論はいつも惚れ惚れする。

そして上田慎一郎監督。
じつは、『カメラを止めるな!』のヒットの前から知っていた。過去作『恋する小説家』が面白くて名前を覚えていたのだ。
奥さんのふくだみゆきさんのアニメ作品『こんぷれっくす×コンプレックス』を配給手配させてほしい、とメールしたところ、プロデューサーとして返事をくれたのが上田監督だった。
メールでやり取りをする中で『カメラをを止めるな!』ブームがきた。「この上田監督って、ぼくがメールでやり取りしている上田さんと同一人物だよな?」と思ったりした。
10月に予定していたイベントは台風でいったん飛んだけど、「いつかぜひ再開催を!」と丁寧に言ってくれた。
そして今回、お忙しいところをぬってワイルドバンチに来てくれた。

この人たちはみんな、今年、ワイルドバンチでのトークイベントに登壇してくれた。
その話す内容を、誰よりも一番楽しみにしていて、そして当日も一番楽しんで聞いていたのは、実はぼくだったかもしれない。

そして12月9日、日曜日。念願の、上田慎一郎監督のイベント。
心斎橋・OPA内のHMVでのイベントの後だった。
その終わり時間に合わせてぼくは、タクシーで迎えに行った。
急遽来てくれることになったどんぐりさんとともにタクシーに乗り込み、ワイルドバンチめがけてスタートしたとき、冒頭の質問をされたのだ。
そのときのぼくは、今年一年で一番緊張していたように思う。
「その感想、嬉しいですね」
との答えが返ってきた。
ホッとしたぼくは、運転手にワイルドバンチへの道を指示する。
タクシーが、大阪の繁華街の脇を北に向けて走りはじめた。
車内では3人で、『カメラを止めるな!』が今年の映画業界にどれほどの衝撃を与えたか、という話をした。
天六の交差点についたときには、角のTSUTAYAの壁面が目に留まった。
そこには大きく『カメラを止めるな!』が掲出されている。
上田監督の乗ったタクシーを歓迎するように。

ワイルドバンチでのイベントは、「上田監督の好きな映画10本を語る」という田中さんの構成と進行が、上田監督の映画愛と『カメラを止めるな!』との関係性に見事にはまり、大盛況に終わった。
あとで上田さん・田中さんから、「いや、ほんと楽しいイベントでした」と言ってもらえた。
ほんとうに素敵な夜だった。

イベントの最後に、田中さんは、映画『ロッキー』の荻昌弘さんの解説を引用した。
「これは人生、するか・しないかというその分かれ道で、「する」のほうを選んだ勇気ある人々の物語です」
聞いている時、ワイルドバンチの店内の片隅でぼくは、泣きそうになっていた。
田中さんの発言はもちろん『カメラを止めるな!』と上田監督に向けられていたが、勝手に、本当に勝手だが、自分にも言われている気がしたのだ。

さらに田中さんと上田さんは、それぞれ同じことを語った。
「売るため、とかでなく、キャストのためにこの作品を作った熱量が素晴らしいですね」
「ある著名な監督に、身近な人を喜ばせようと思って映画を作りなさい、と言われたんです」

ああ。
このイベントの最後にぼくは、閉会の挨拶をしないといけないのに。
舞台袖で、涙が止まらなくなっていた。
だって、ぼくがキネプレでやってきたことも、まったく同じだったから。

ずっと、「かつて大学生だった自分だったら、どんな風に興味を持つかな」と思って、キネプレをやってきた。
ナタリーの大山卓也さんが、ロッキンオンの渋谷陽一さんが、ぴあの矢内廣さんが、シブヤ経済新聞の西樹さんが、そしてむかし、アニメージュの尾形英夫さんが、みんなそうであったように。
そんな昔の自分が読みたい記事、観たい映画、行ってみたいイベント、そんなものを届けるように、ずっと走り続けてきた。
途中で少しずつ仲間が増えた。こんどは、そんな人たちが楽しむようなものを届けたい、と思うようになった。
それで良かったんだな、と改めて思う。
人生のいろんな分岐で、ずっと「いや、する!」と決めて、やりつづけてきたからこそ。
いま、ここにいる。

ふいに10年前のことがフラッシュバックした。
広告代理店に勤めていたとき、沢木耕太郎の「一瞬の夏」を読んだ。
カシアス内藤という一世を風靡したボクサーが、復帰をかけて再チャレンジしていく様子を、ルポライターの沢木が一年間追いかけた名著だ。
ここまで熱量をもって取材を続けられるって素晴らしい、と思った。
そして内藤を追いかけている中で、沢木はふと思う。内藤が「いつか必ず」と願った最高の試合を、自分の手で作り出せないかと。
それは取材者の枠を飛び越えた行為だった。ライターという存在から踏み出し、マッチメイクを手伝った。
それを読んだぼくは、取材し、文章を書くだけにとどまらず、ものをプロデュースしていく、ということにとてつもない憧れと大いなる情熱を抱いてしまったのだ。

それが10年前だ。
そしてぼくは映画の専門学校に1年間もぐりこみ、映像チームに参加し、フリーペーパーを作り、キネプレを立ち上げ、今に至る。
野村さん、武部さん、戸村さん、増山さん、田中さん、そして上田監督にも出会えて、良い夜を過ごすことができている。

そう、これは、10年間なにかを続けていて、ちょっとずつちょっとずつ進んで、こんなところまできた、という奴の恥ずかしい思い出の記録だ。
でも、自分でスタートを切って歩いて行く中で、気づいてしまった。
「続けることで、続いていく」
ということを知ってしまった。

こないだは、ある人とこういう話をした。
「とりあえず続ければいいんだ。続けながら考えて、考えながら続けたらいいんだよ」
どんなことでもそうだけど、やめたら終わりだ。
続けないと見えない景色、ってのは確実にあって、そんな景色の存在を信じながら続けていくかどうか、というのが、けっこう大事な分かれ目なのだ。
続けている間に、いろんなことが舞い込んで、いろんな機会が生まれたりする。
続けていないと、その機会には絶対に飛びつけないのだ。

「意地で続けてるんだよね」
と言われたこともある。
そんなことはない。
意地なんかに価値はなくて、ぼくには確信に近いような「続けるだけの理由」があった。
そしてなにより、続けることがたのしかった。
続けることで、自分の世界が広がり、多くの人に出会い、できることが増えていくのが、ひたすら楽しかった。

とりあえずいまは、10年前のぼくに言いたいんだよ。
おい、10年後はけっこういろんなことができているぞ、ってね。
ああ、でもなんかよく考えると、節目節目にそんな声を聞いていた気もするな。
無根拠で無謀で無茶な決断をやり続けてきたけど、いつだって自分は味方でいてくれた気がするな。

じつは来年そうそうに、もう一つ大きなことが実現することになった。
これはもうね、個人的にはこの10年の総決算じゃないか、というぐらいのことが、起きようとしている。
いや、ちょっと違うな。
結局これも、「する」と決めて、自分で申し込んだことだった。
とりあえず来年も自分を追い込むぐらいでちょうどいいだろうと思ったのだ。

映画『ロッキー』は、シルヴェスター・スタローンやその他の俳優、監督たちを一躍スターにした。
『カメラを止めるな!』は上田監督や俳優たちを、表舞台に押し上げた。
野村さん・武部さん・戸村さん・増山さん・田中さんも、「する」と決めたことをやり続けて、いまの場所にいるし、これからもさらに昇っていく人たちだ。
さあ次はぼくの番であり、みんなの番だ。

やってやろうじゃんか。

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