折形 五


このお教室に来ると、私は本当に何者でもなく、折形に、伝統に、人間に興味がある、ただそれだけの人になる。
仕事も折形とは全く関係ない。
知り合いも、しがらみも全くない。


そんな中ですっと筋の通った先生から、すっと背筋が伸びる本質を学びたい。

紙のこと、日本のこと、人のこと、大切なことを。



私は知識よりも知恵、言葉よりも空気、否定よりも肯定、能動よりも受動。


なにも持っていない私が、環境によって少しずつ与えてもらったものでなにをできるかわからない。


小さいけれど、大切だと思うものを少しづつ積み重ねていけば、いつかなにかを見つけられる。

そんな確信に近いなにかを感じている。



この折形の時間は自分が真っ白い紙になって、先生の言葉、お教室の空気、受講者の皆さんの存在、全てが染み込んで、なにかを描いているような感覚になる。


ひとり静かに写経をしている時間に似ている。



“型”
なぞるのではなく中に取り入れる。
型を身体化させる。

そうすれば型を日常生活を送る上で、臨機応変に変えていく事ができる。

“型”とは?
折形をはじめとした様々な作法、筆、武術。
数学も古典も、物理も、あらゆる分野の学問も。
全ての仕事も。
人の営み全てに型があるのかもしれない。


まずは筆の型を少しづつ、身体に染み込ませていこう。

ナニカニツナガル。

そんな気がしてならない。



都会に住み、しかもひたすら合理性を追い求めなければいけない仕事をしている私が、先人が築いた伝統や、自然と共存するための知恵、これらをどうやって活かすことができるだろうか。


草履を編むことができなくなった現代人として、この先の靴紐も結べないような更なる現代人に生活のレベルで何を残せるか。
残すべきか。
そのために私が今何を学ぶべきか。

それが折形を学んで見つけた深く考えるべきことかもしれない。