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涙が流れてしまったのは目の前の状況に対してではない。20年以上も前のことを急に思い出したからだ。母との数少ない思い出。嘗ては沢山あったはずの思い出も時間と共に確実に減っていくという事実に気づいた時、僕はとても悲しくなった。唯一心の中だけはすべてが永遠に生き続けることができる世界だと思っていたのに、それは時間の流れにあっさりと覆された。
突然泣いた僕に驚く葉月。僕は言葉を発せない。持ってきたのに結局使わなかった傘。照れ臭そうに笑っていた顔。何度も何度も後悔してきたはずなのにまた同じ後悔を繰り返す。嘘みたいに晴れ渡った空。大切なものが本当に大切だと気づくのはいつも(いつまでたっても)ずっと後のことだ。淡い色ばかり使って夜を描き始める空。揺れるロングスカート。最初は訝しんでいた葉月も今じゃ呆れて笑っている。そばかす。目尻のしわ。僕はまだ涙を止めることができないでいる。数多の後悔の先で馬鹿な僕はまだ永遠を疑ってすらいなかったのだ。母がこちらを見て笑っている。何か言っている。が、聞き取れない。でも、と思う。この記憶だけは失っちゃだめだ。いつでも思い出せる場所がここにありますように。僕は拳を強く握りしめていた。
すると突然背中に衝撃が走った。
平手で誰かにバンと押されたようなそんな衝撃だった。驚いた僕は葉月と目があったけど、葉月は何にも気づいていないみたいだ。振り返った僕の背後には誰もいない。力が抜けた。
「そうか」と僕は思った。
傘を持つ葉月の手を両手で包み込む。「葉月も雨を止ませちゃうのな」と僕が言った。「私も?」と葉月は聞き返した。葉月の手はあったかかった。このぬくもり、と思った。僕は再び泣き崩れる。今度は大声で泣いた。晴れ渡った空は見事なまでに美しい橙色で、この世界で今僕だけが傘を必要としていた。

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