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猫夜

この塀を登って進んだ先の一角から眺める神楽坂の街並みが好きだった。

いつまでも眺めていられた。

猫は感傷に浸るでもなく思い出される記憶があるわけでもなく今日見える街並みがただ好きだった。

風は冷たくも暖かくもなくて、白い花びらを数枚引き連れて路地を抜けて行く。その風が猫の背中に細波を作り出した時猫は春を認識する。人間のように冬の寒さと比較して感じるのではなく、ただその風の匂いで春を享受していたのだ。

塀の下ではコートを脱いだ人たちが闊歩する。
どこか少し開放的になったのか楽しそうな話し声。塀の上で猫はそれを眺めるのも好きだった。

でもその人間たちに構われることは酷く嫌った。

長年神楽坂に住み着いたせいか、ある程度の人間の話す言語が理解できるようになってはいたのだが、だからといって彼らと慣れ合おうとは少しも思わなかった。

欠伸して見上げた空。
夜が来るのはまだもう少し先だ。

猫は塀を飛び降り駆け出した。

春を享受した身体は以前より軽くしなやかだった。思ってるよりも遠くへ飛べたし思ってるよりも高く登って行けた。

神楽坂の街は夜になると昼とは全く別の顔を持った街になる。夕陽が街と街の影を色濃く描く。猫は狭い路地を、家々の隙間を、風のように抜けていった。

もうそこまで来てる夜が待ち遠しかった。

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