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漂流

一昨日に通りかかった船はこちらの存在に気づかなかった。その時は酷く絶望的な気持ちになった。世界が終わるくらい恐ろしかった。でも今はもう何も感じない。恐怖心は今朝何処か出口を見つけて消えてしまったらしい。
このままどうなってしまうんだろう?
2日間考えてわかったことは、それは答えが出るはずもない問いであるということだけだ。もう他に出来ることはなかった。あとは想像と思考で漂うだけ。方向性は2つ、過去か未来か。どちらに目を向けてもいい。とにかくその方向が「今」でなければいい。それだけを願う。

先週は居酒屋で夢を語り合っていた。話は世界平和にまで発展した。それに感化されてか何人かが騒いでいた。ただただ楽しかったあの瞬間こそが平和だったんだと今ならそう思える。突然の非日常に晒された時、変わり映えしないありふれた日常が如何に幸福だったかを思い知らされる。
では「世界平和」とはそんな相対的なものなんだろうか?不幸があることによって幸福を認知できるような。死に直面して初めて生を感じるような。戦争があるから平和を掲げられるような。僕らは後出しジャンケンを正当化したいだけ。
ま、こんな状況下においてはそれもどうでもいいことだ。思考できるだけ僕はまだ生きてるということだ。でもそれも長くは続かない。そのうちに僕はのたれ死ぬだろう。

いつかに僕は夢を見た。
音も無く言葉を交わし、僕らは通じ合っていた。
笑った顔がいくつも見える。
人の温もりがじんわりと広がる。
僕も笑っている。
教室のような部屋で月が太陽みたいに明るい。
昼か夜かわからないけどこの光はとても安心する。どこまでも僕らは一緒なんだと思えた。

晴れた空に透けるほど薄く雲がかかっている。どちらに顔を向けても碧い水平線。いっそのこと嵐にでもなってくれればと思う。破壊的な大波がすべてを呑み込んでくれればと思う。そうすればわけもわからないうちに僕は死ねるのに。そうさせない世界は残酷だ。生きることってのはとても残酷なことなんだと思った。それは此処に限らず街や社会の中においてもきっとおんなじだ。「奪われることもある意味では救いだ」と誰かが言っていたことを思い出した。

そのとおりかもしれない。

このまま死ぬまで何もなく漂うだけなら今奪ってくれて構わない。欲望でさえも2日もすれば殆どが海に溶ける。明日にはもう完全に溶解されているだろう。それでいい。この星の一部になれたならそれでいい。そう思って死のう。気が狂ってしまう前に。こんな事をうだうだ考えてることがもう既に狂ってるってことか?それもよくわからなくなってきた。どうでもよくなってきた。あー、海に溶ける。海水が細胞を解いていく。
どうか世界が平和でありますように。
あの夢の続きを見れますように。

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